鎌倉・南北朝・室町時代

 鎌倉・南北朝・室町時代

矢口の渡しでの謀殺された新田義興が怨霊化になった理由。

はじめに 皆様、「禁足地」と言葉を知ってますか?「禁足地」はその地にまつわる歴史や宗教上の背景から絶対に立ち入ってはいけない場所という意味です。たとえば「禁足地」有名なのは、千葉県市川市八幡にある「八幡の藪知らず」・太平洋戦争で激戦地になっ...
飛鳥・奈良・平安時代

上総広常粛清の謎、源頼朝に謀反したことは本当か?

はじめに 神奈川県横浜市金沢区朝比奈に上総介という五輪塔があります。この五輪塔の人物は上総広常です。上総広常と言えば、2022年(令和4年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の佐藤浩市さんが演じてました。この上総広常の墓は朝比奈切通しの...
 鎌倉・南北朝・室町時代

 六波羅探題攻めの謎、なぜ足利高氏は鎌倉幕府を裏切ったのか?

はじめに 4月に筆者は、京都旅行で亀岡市を訪問。亀岡は明智光秀の居城丹波亀山城内に大本教の本部が知っていましたが、あいにく今回は明智光秀の史跡訪問ではなく、足利高氏史跡巡りで、さっそく、亀岡駅から山陰本線の京都行に乗車し、隣の馬堀駅で下車し...
 鎌倉・南北朝・室町時代

南北朝時代に室町幕府が元に派遣した貿易船「天龍寺船」とは。

はじめにこの前、京都を訪問した時、嵯峨野を訪れ天龍寺に拝観しました。天龍寺庭園は広くて立派でした。天龍寺にある天龍寺年表を見てたら1341年(南朝〈興国2年〉・北朝〈暦応4年〉)に足利直義が夢窓疎石と中国元朝に貿易船を送るとあったが、学校時...
 鎌倉・南北朝・室町時代

畠山重忠の乱の原因は牧の方の陰謀ではなく、武蔵国を巡って畠山重忠と北条時政の対立にあった。

はじめに  横浜市旭区にある相鉄線の鶴ヶ峰駅近辺には、二俣川古戦場跡と畠山重忠に関する史跡があります。二俣川と地名を聞いたら神奈川県に住んでいる人は、すぐに運転免許センターがある場所だと思うかもしれません。しかし、400年前の鎌倉時代初期に...
 鎌倉・南北朝・室町時代

 新田義貞の鎌倉攻めの折、稲村ケ崎から鎌倉へ徒渉した伝説は果たして本当か?

はじめに   稲村ヶ崎は現在は藤沢から鎌倉を結ぶ江ノ電に稲村ケ崎駅があり。地理的に鎌倉市の南西部にある岬で、七里ヶ浜と由比ガ浜の間にあります。   奈良時代の万葉集に稲村ケ崎は  ー鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心...
 鎌倉・南北朝・室町時代

等持院の建立の歴史、等持院は「実は足利尊氏の戒名」「京都市内二か存在した。」

 等持院の建立の歴史を話します。等持院は元は京都市中区高倉通り御池昇る柊町にありました。現在は京都府保健事業協同組合ビルの前に石碑があるだけです。当時は、そこに足利尊氏の邸宅がありました。1341年に臨済宗の禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)が開山に尊氏邸に「本寺等持寺」を建立。二年後の1343年に現在の等持院ある場所に「別院北等持寺」を建立。つまり等持寺と名乗る寺がが京都二か所誕生しました。 1358年に室町幕府初代将軍足利尊氏が死ぬと、尊氏の遺体を「北等持寺」に葬りました。そのため「別院北等持寺」は尊氏の戒名『等持院殿』から取って、「等持院」に寺名を変えました。その後、応仁の乱で高倉通りにあった「本寺等持寺」は戦火で全焼し、別院「北等持寺」に合併し、現在の等持院になりました。室町幕府滅亡後は等持院は衰退しますが、1606年に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が再建します。