鎌倉・南北朝・室町時代

鎌倉・南北朝・室町時代

南北朝時代に室町幕府が元に派遣した貿易船「天龍寺船」とは。

はじめにこの前、京都を訪問した時、嵯峨野を訪れ天龍寺に拝観しました。天龍寺庭園は広くて立派でした。天龍寺にある天龍寺年表を見てたら1341年(南朝〈興国2年〉・北朝〈暦応4年〉)に足利直義が夢窓疎石と中国元朝に貿易船を送るとあったが、学校時...
鎌倉・南北朝・室町時代

畠山重忠の乱の原因は牧の方の陰謀ではなく、武蔵国を巡って畠山重忠と北条時政の対立にあった。

はじめに  横浜市旭区にある相鉄線の鶴ヶ峰駅近辺には、二俣川古戦場跡と畠山重忠に関する史跡があります。二俣川と地名を聞いたら神奈川県に住んでいる人は、すぐに運転免許センターがある場所だと思うかもしれません。しかし、400年前の鎌倉時代初期に...
鎌倉・南北朝・室町時代

 新田義貞の鎌倉攻めの折、稲村ケ崎から鎌倉へ徒渉した伝説は果たして本当か?

はじめに   稲村ヶ崎は現在は藤沢から鎌倉を結ぶ江ノ電に稲村ケ崎駅があり。地理的に鎌倉市の南西部にある岬で、七里ヶ浜と由比ガ浜の間にあります。   奈良時代の万葉集に稲村ケ崎は  ー鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心...
鎌倉・南北朝・室町時代

等持院の建立の歴史、等持院は「実は足利尊氏の戒名」「京都市内二か存在した。」

 等持院の建立の歴史を話します。等持院は元は京都市中区高倉通り御池昇る柊町にありました。現在は京都府保健事業協同組合ビルの前に石碑があるだけです。当時は、そこに足利尊氏の邸宅がありました。1341年に臨済宗の禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)が開山に尊氏邸に「本寺等持寺」を建立。二年後の1343年に現在の等持院ある場所に「別院北等持寺」を建立。つまり等持寺と名乗る寺がが京都二か所誕生しました。 1358年に室町幕府初代将軍足利尊氏が死ぬと、尊氏の遺体を「北等持寺」に葬りました。そのため「別院北等持寺」は尊氏の戒名『等持院殿』から取って、「等持院」に寺名を変えました。その後、応仁の乱で高倉通りにあった「本寺等持寺」は戦火で全焼し、別院「北等持寺」に合併し、現在の等持院になりました。室町幕府滅亡後は等持院は衰退しますが、1606年に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が再建します。