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飛鳥・奈良・平安時代

  土佐に散った源頼朝の弟、その名は源希義

はじめに   今から20年前、夏の数日間、高知県介良に滞在していた時期があります。朝、近所を散歩していたら、偶然平安時代の人物で源義朝の五男源希義(みなもとまれよし)の墓を見つけました。その人物は希義は頼朝の実弟で、なぜ頼朝の弟の墓が関東地...
鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

 新田義貞の鎌倉攻めの折、稲村ケ崎から鎌倉へ徒渉した伝説は果たして本当か?

はじめに   稲村ヶ崎は現在は藤沢から鎌倉を結ぶ江ノ電に稲村ケ崎駅があり。地理的に鎌倉市の南西部にある岬で、七里ヶ浜と由比ガ浜の間にあります。   奈良時代の万葉集に稲村ケ崎は  ー鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心...
鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

 長宗我部元親は、なぜ甥の吉良親実を殺害したか?その死が「七人みさき」を誕生させた。

はじめに みなさまは妖怪「七人みさき」を知っていますか?アニメや漫画の「ゲゲゲの鬼太郎」や「地獄先生ぬ~べ」にも登場しますので、知ってる人もいますね。  「七人みさき」について説明します。『災害や事故で、特に海で溺死した人間の死霊。その名の...
鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

 豊臣五奉行の増田長盛が、果たして豊臣家を滅亡に導ていたか?

はじめに先日。私は埼玉県新座市の平林寺を訪れた時。豊臣政権の五奉行の一人増田長盛の墓があったので、お参りしてきました。よく増田長盛の行動が豊臣氏滅亡に一躍関係していると記事とか見かけるので、自分でも書いてみたいと思います。         ...
江戸時代

豊臣秀吉、徳川家康に徹底的に反抗した。日蓮宗不受不施派の僧日奥

はじめに みなさまは、日蓮宗の一派に不受不施派(ふじゅふせは)があることは知っていますか?多分知らない人がほとんどです。それでも知ってる人は、おそらく高校の学校の歴史の教科書で習ったと思います。教科書では、近世の徳川幕府の宗教弾圧の項で、キ...
飛鳥・奈良・平安時代

石田三成の先祖は三浦一族の蘆名氏であった。

石田為久は相模蘆名氏の出自 源頼朝の家臣である石田為久は、元々相模国最大の御家人三浦氏の出で、衣笠城で戦死した三浦義明の弟為清が、相模三浦郡蘆名郷(現神奈川県横須賀市芦名)に移り住んで蘆名為清と名乗った。為清の息子蘆名為景が、さらに相模国大...
飛鳥・奈良・平安時代

牛若丸と武蔵坊弁慶の出会った五条大橋は、実は現在の五条大橋ではない。

はじめに  皆さんは、唱歌・童謡『牛若丸』を知っていますか?    【歌詞】 牛若丸『京の五条の橋の上大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて牛若めがけて切りかかる牛若丸は飛び退いて持った扇を投げつけて来い来い来いと欄干の上へあがって手を叩く前...
鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

河尻秀隆よる甲斐統治の謎、果たして甲斐国の領民に圧政をしていたか?

はじめに  先日、自分は私用で山梨県甲府市に行きました。その際、武田神社から甲府駅に戻る途中に川窪町行きあたり、そこには武田信玄火葬塚という墓がり、その前に河尻秀隆の墓と伝えられる河尻塚を見つけまして、見学しました。河尻秀隆は織田信長の家臣...
江戸時代

高島平の地名の由来になった。西洋砲術家高島秋帆による武州徳丸が原での洋式砲術訓練。

(板橋区赤塚の松月院境内にある高島秋帆の功績碑) こんにちは、今日は江戸時代後期の天保期について話します。とこで、みなさまは、板橋区の高島平という場所を知っていますか?現在の高島平は都営地下鉄三田線の終点西高島平駅があり、またマンモス団地の...
鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

等持院の建立の歴史、等持院は「実は足利尊氏の戒名」「京都市内二か存在した。」

 等持院の建立の歴史を話します。等持院は元は京都市中区高倉通り御池昇る柊町にありました。現在は京都府保健事業協同組合ビルの前に石碑があるだけです。当時は、そこに足利尊氏の邸宅がありました。1341年に臨済宗の禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)が開山に尊氏邸に「本寺等持寺」を建立。二年後の1343年に現在の等持院ある場所に「別院北等持寺」を建立。つまり等持寺と名乗る寺がが京都二か所誕生しました。 1358年に室町幕府初代将軍足利尊氏が死ぬと、尊氏の遺体を「北等持寺」に葬りました。そのため「別院北等持寺」は尊氏の戒名『等持院殿』から取って、「等持院」に寺名を変えました。その後、応仁の乱で高倉通りにあった「本寺等持寺」は戦火で全焼し、別院「北等持寺」に合併し、現在の等持院になりました。室町幕府滅亡後は等持院は衰退しますが、1606年に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が再建します。