はじめに
今、江戸城再建プロジェクトがちまたをにぎわせています。360年の時を超えて、今こそ江戸城天守閣を皇居東御苑に再建をしようという試みです。皇居東御苑には江戸城の天守台跡があります。江戸城といえば徳川氏の居城で、江戸時代の日本政府の中心の場所です。その政治の中心の江戸城に、なぜ天守閣がないのか?その答えは江戸時代の初期の1657年(明暦3年)1月18日から20日に発生した振袖火事の影響で江戸城にも延焼したからです。振袖火事は「明暦の大火」または「丁酉火事」とも呼ばれる江戸時代の三大火事の1つです。なぜ、「明暦の大火」が発生したのか、大火は江戸市中で広がったか?詳しく見てましょ?
明暦の大火の発生の経過
1657年(明暦3年)1月18日、第1の出火
1657年(明暦3年)1月18日から20日に3つの場所から出火しました。第1の出火は1月18日の未の刻(午後14時)に本郷丸山の本妙寺から出火しました。本妙寺は日蓮宗系の寺院で、出火の原因は不明だけど、出火した火は折しも北西の強風で舞いあがり、湯島・駿河台方向に燃える広があり、湯島方面に飛び火は湯島天神・神田明神・東本願寺に次々と延焼した。駿河台にも飛び火に諸大名の屋敷に延焼し、次々から焼き払い、鎌倉河岸(現在の千代田区内神田の南部)にも燃え広がった。神田明神から烈風により飛びした火は、村松町(現在の中央区東日本橋)・材木町(現在の千代田区神田岩本町)を焼き、柳原(現在の千代田区万世橋から台東区浅草橋までの神田川の南岸。現在の柳原通り)から和泉橋を焦土化しました。

駿河台の火は二手に分かれて、誓願寺から迂回して進んだ。もう一方の火は神田須田町から神田鍛冶町・白銀町(中央区日本橋)に真っすぐ南下しました。18日の夕刻から風向きが急に西へと変わった鎌倉河岸の火は神田橋には延焼せず、遠く隔てた鞘町(現在の中央区日本橋本石町)へと飛び火し、東に延焼して伊勢町(現在の中央区日本橋本町)より江戸橋付近で隅田川を越え、茅場町(現在の中央区日本橋茅場町)まで延焼した。さらに、炎は東に拡大して八丁堀まで延焼した。炎はさらに八丁堀から霊巌島に飛び火しました。霊巌島の住民たちは、炎から逃れるため霊巌寺に避難したが、そこに炎が飛んできて避難した住民を9600人(約10000人)を焼いて焼死させました。


霊巌島の炎は、強風のため停泊した舟に燃え移り、その炎は江戸湾を越えて佃島・石川島にまで達した。隅田川を隔てた炎は向島八幡宮も消失しました。西風に煽られた火災は吉原に飛び火し、吉原遊廓も焼いてしまった。また浅草橋では大火の時、小伝馬町牢獄では牢番が非常時に囚人を牢から解き放った。その囚人が江戸城の浅草橋門に殺到した。浅草橋門の門番は殺到してきた囚人たちをみて、「集団脱走」だと勘違いしてしまい、門を閉ざしてしまった。そこに神田・日本橋から火事から避難してきた群衆が浅草に向かっていたが、浅草橋門が閉まっていたので、避難民全員炎にまかれて焼死してしまった。


本郷丸山の本妙寺から発生した火事も延長約5・3㎞に及んで、19日の午前2時過ぎてようやく鎮火した。
1657年(明暦3年)1月19日、第2の出火
1月19日の早朝、前日の大火に続いて小石川鷹匠町付近から出火した炎は水戸藩の屋敷を焼き、その後、炎は堀を越え飯田町(現飯田橋)・市谷・番町へと延焼が広がった。正午から午後1時にかけて江戸城に炎が広がり、江戸城天守閣に燃え移り、天守閣焼いた。さらに午後4時ころ常盤橋内の大名屋敷など一斉に焼いた。猛火は鍛治橋の諸大名邸・旗本屋敷など焼き尽くした。やがて北風が西風に変わったため、江戸城西の丸・紅葉山・御三家の上屋敷は焼失を免れた。しかし、火は八重洲河岸から中橋方面に延焼していき、炎から逃げまどう群集は焼けた落ちた橋などにより徐々に逃げ場を失い命を失った。炎はさらに南の新橋・木挽町(現中央区銀座)に達した。

1657年(明暦3年)1月19日、第3の出火
1月19日の夜に今度は麹町の町屋から出火して、火はまたたくまに延焼し、半蔵門から外桜田に広がり、彦根藩井伊家の上屋敷や山王社など焼き、大名屋敷約50を焼失した。さらに西の丸下の屋敷多数全焼し、炎は虎ノ門から愛宕山の下を抜けて、芝の増上寺門前を津波のように通過して芝浦の海岸にぬけて鎮火した。

明暦の大火後の幕府の対応
この本妙寺・小石川・麴町の三か所で発生した火災を「明暦の大火」または「「丁酉火事」と呼ばれている。火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため両国に万人塚を築き、後に諸宗山・無縁寺回向院が建立されました。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。
老中松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場の高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。それを受けて、地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、府内に米が充満して米価も下がった。
この大火を契機に江戸の都市改造が行われ、徳川御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋・永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、駒込吉祥寺は門前町に住んでいた住民たちは家を火事で失い、江戸郊外の五日市街道付近を開墾して移住した。(これが現在の武蔵野市吉祥寺)また神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の移住地として1658年(万治元年)に神田連雀新田として開墾された(これが現在の三鷹市下連雀)
明暦の大火後の江戸の町の防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線して広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行した。耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。
しかし、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われる通り、江戸は以降もしばしば大火に見舞われた。事実、翌年の明暦4年1月10日(1658年2月12日)には再び本郷から神田・日本橋一帯を焼く火災に見舞われている。
明暦の大火の被害
明暦の大火の被害は『明暦炎上記』によると大名屋敷約160件・旗本屋敷約810件・町人町約800町余焼いた。当時の江戸市街の約60%が焼亡した。この他は寺社は約300余・橋は約60余・倉庫は約9000余が焼失した。
大火の死者は『むさしあぶみ』『本所回向院記』『山鹿素行年譜』など死者は10万人と記しており、また『上杉年譜』『明暦三年丁酉日記』は死者は3万7000人と記している。実際、大火で亡くなった数は、幕府牛島新田に葬った死者は6万3430人余で、隅田川に漂着した死体は4654人だった。


江戸城天守閣再建問題
明暦の大火の火事で焼け落ちた江戸城の天守閣の再建に際し、天守台は御影石により加賀藩主前田綱紀(保科正之の娘婿)によって高さを6間に縮小して速やかに再築されたが、天守構造物については保科正之は「織田信長公が岐阜城に天守を築いたのが始まりであって、戦乱時には必要であって、太平な時代に城の守りには必要ではない」として、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張し、幕府の金は復興資金に使われました。そのため、その後は江戸城天守は再建されず、以後、新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたこともあるが、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。冒頭で話した江戸城天守閣再建プロジェクトが起った。

明暦大火の時の幕府内は酒井忠勝松平信綱・阿部忠秋ら幕臣は保科正之の建言を受けて、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに注力した。正之の死後には貨幣の改鋳などの経済政策の欠落があり、幕府は財政難へと陥っていった。
明暦の大火直後の明暦3年2月23日、「火事の際に拾ったものを着服した者は泥棒と同罪とみなし死罪とし、落とし物を拾っている者を見たら、その場で討ち捨てても構わない。もし放火をする者がいたら、これを松明焙か火焙りにせよ」と命じた。『家世実紀』には「只今之時分に候間加様之咎人は見懲之ため日来より厳誅伐可申付旨被仰出之(今だからこそ、このような罪人は、見せしめのために、いつにもまして厳しく処罰しなければならない)」とある。状況に応じて正之が刑罰を緩和したり、一転して厳罰化を採用したのは、一説に死者十万余という甚大な被害を出した明暦の大火後の不穏な社会情勢下で、放火犯や火事場泥棒を厳罰に処さなければ社会秩序が崩壊し、幕府の統治に重大な困難を来すことを懸念したためとみられる。
明暦の大火の原因
明暦の大火の出火原因は放火説と失火説があるが、現在も特定されていない。
第1本妙寺失火説
本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。この伝承は大火後まもなくの時期に唱えられており、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。
江戸麻布の裕福な質屋遠州屋の娘梅乃(数え齢17歳)は、本郷丸山の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
このことから、この伝承は前述の振袖火事の別名の由来にもなっている。しかし、同時代の浅井了意は大火を取材してこれを「作り話」と結論づけている。
第2幕府放火説
江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。
当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。しかし先述のように、幕府側も火災で被害を受けており、江戸城にまで大きな被害が及んだため、幕府放火説には疑問が存在する。
第3本妙寺火元引受説
本来、火元は老中阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説。
これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。
明暦の大火の影響

- 江戸城大奥ではこれ以前は髪を結い上げることがなく安土桃山時代と同様の垂髪だったが、これ以降は一般武家や町人と同様に日本髪を結うようになった。
- 大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。
- 多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた長持(車長持)で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が三都(江戸・大坂・京都)で禁止された。
- この大火の際、小伝馬町の伝馬町牢屋敷には150から300人ほどの囚人が収監されていたが、牢屋の炎上も時間の問題となった。牢屋の鍵は町奉行が管理しており、奉行所から何の通達もなかったことから、囚人たちが焼け死ぬのは必定であった。牢屋奉行の石出帯刀吉深は焼死を免れない囚人たちを憐れみ、独断で牢屋の鍵を壊し、囚人たちを集めて「この大火が収まったら必ず戻ってこい。もし、この機に乗じて雲隠れする者がいれば、地の果てまでも追い詰めて、その者のみならず一族郎党まで成敗する。だが、素直に戻れば、たとえ死罪の者でも、自分の命に代えても助けてみせよう」と申し渡し、囚人たちを逃がした。囚人たちは涙を流して吉深に感謝し、後日、全員が牢に戻ってきた。吉深は「たとえ囚人とはいえ、彼らは立派に義に報いてみせた。このような義理堅い者たちを、みすみす殺してしまうのは国の損失である」と幕閣に囚人たちの助命嘆願をし、幕府も吉深の意見を容れて囚人たちの刑を減免した。以後、緊急時に囚人たちを一時的に釈放する「切り放ち」が制度化され、江戸時代に計15回の切り放ちが行われた。
- 当時74歳だった儒学者林羅山は、この大火で自邸と書庫が焼失して衝撃を受け4日後に死去した。
- 当時、江戸に参府していたオランダ商館長(カピタン)ツァハリアス・ヴァグナー一行も大火に遭遇した。
- 明暦の大火ではその被害にもかかわらず、朝廷では災害防止の祈祷が行われず、翌年1月の大火を受ける形で同年3月5日になって初めて内裏紫宸殿において江戸の火災を受けた災害祈祷が行われていることから、このことが幕府の怒りを買って後西天皇の退位につながったとする説がある。
- 台東区の東京メトロ銀座線田原町駅近辺にある仏壇通りは、幕府がこの一件の後に寺院を一所に集め、それに伴って神仏具専門店が集まったことでできた専門店街である。
参考文献
『明暦の大火』(黒木喬)(講談社)(講談社現代新書)(1977年12月)
『明暦の大火「都市改造」という神話』(岩本馨)歴史文化ライブラリー 吉川弘文館、2021年9月
『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主』(中村彰彦著)(中公新書) 1995年 中公文庫 2006
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