大阪の観光名所の一つに大阪城があります。豊臣秀吉が建てた城です。現在も秀吉と大阪市民を繋ぐ憩いの場所になっています。その大坂城内に一角に石山本願寺跡地の石碑があります。元々大坂城ある場所は本願寺教団の寺院でした。石山本願寺の頃は大坂御坊と名乗っており、その本願寺が織田信長と争って、1580年に信長と和睦して本願寺が撤退してから後、大坂城が建てられました。現在の大阪で石山本願寺の遺構は、城内の石碑以外見当たりません。なぜ本願寺光佐顕如は信長と争い、信長と10年間も戦争が続いたか話したいと思います。
石山本願寺以前の本願寺教団
1489年(延徳元年)に蓮如は法主を実如に譲り、蓮如自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、1496年(明応5年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。大阪御堂の建設は堺の町衆・摂津・河内・和泉・北陸門徒衆の援助を得ながら、翌1497年(明応6年)4月に上棟があり、11月には総石垣の扉御門が出来て、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。なおこれに伴い建設された寺内町が現在に繋がる大坂の町の源流になったとされる。
生玉荘と呼ばれていた当地が、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が1568年(永禄11年)に書いた史料によると、
「 | 明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々 | 」 |
—反故裏書 |
蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との(明応の政変)以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。1506年(永正3年)に実如は、摂津・河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。
1532年(享禄5年)5月、河内守護代木沢長政が守護職を乗っ取ろうとしていることが発覚し、河内守護である畠山義堯による飯盛山城への攻撃が再開された。畠山勢には三好元長・筒井氏も加わった。そこで実如の後継の法主証如は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて参戦し、翌月6月には、攻囲軍を退散させた(飯森山城の戦い)。さらに一向一揆は法華宗徒であった三好元長を堺まで追い回し、元長を自刃に追いやった。その間にも参集した門徒は10万人まで集まったと伝わる。しかし、ここで解散せずに大和へも乱入した一向一揆に危機感を覚えた細川晴元が、天文に改元後の同年8月初旬から本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。
更に細川晴元からの要請に応じた法華一揆や六角定頼(近江守護)によって、1532年(天文元年)8月23日に3万から4万の兵で包囲された山科本願寺は、寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。
この時、法主証如は大坂にいたが、山科本願寺焼亡したため、山科から大阪に寺基を移し、石山本願寺(大坂本願寺)確立した。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌1533年(天文2年)7月25日に鎮座した。この年が築城年にされているのは、この鎮座の時期が理由とされている。
この間も細川晴元と本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、本願寺では坊菅の下間頼盛が指揮官として赴任してきた。紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、1535年(天文4年)11月末、山科本願寺の戦いから約4年後、ようやく晴元と石山本願寺の両者で和議が成立する。下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放され、後に近江で下間頼秀兄弟は証如の放った刺客に暗殺された。
細川晴元らとの抗争の中で本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし「寺内町」として防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭都市に至ったと考えられている。また、本願寺は毎年比叡山延暦寺に末寺銭を払っているが、隣接している法案寺から寺地を買い取った際は法案寺に金銭を支払っている。そして本願寺の境内地自体が相国寺塔頭の鹿苑院の所有なので、本願寺は法案寺を通じて鹿苑院に地子銭を支払っていた。
本願寺の法主証如から顕如が継いだ。西日本・北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。イエズス会所属ガスパル・ヴィレラの1561年(永禄4年)8月の手紙に、
「 | 日本の富の大部分は、この坊主の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭り を行い、参集する者ははなはだ多く、寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者をだす。(中略)夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る。 | 」 |
—ガスパル・ヴィレラの手紙 |
と報告されるほど本願寺は多数の門徒とその門徒がもたらす財力を有していたことがわかる。
証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、中央権門では天皇・公家衆へ接近を強め、東国の戦国大名家では甲斐の武田氏・相模の北条氏康・北条氏政親子と親交を結ぶ。そして三条公頼の三女の教光院如春尼を法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢、続いて細川晴元の養女としたうえで顕如の正室に迎え入れ、戦国大名と同盟を結んで基盤の安定を整えていた。
石山本願寺と織田信長との争い(石山合戦)
第一石山合戦と信長包囲網
1568年(永禄11年)10月、織田信長が足利義昭を報じて上洛してきた。足利義昭は室町幕府の第13代将軍足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第14代将軍足利義栄から義昭に渡ることが確実になった。信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。信長は将軍家の名目で、教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はこれを支払った。
1570年(元亀元年)正月、信長は本願寺法主顕如に「本願寺の地の明け渡し要求してきた」これに対し顕如は全国の門徒衆に対し、「大阪の御坊を防衛するため、武器を携えて大坂へ集まれ」檄を飛ばした。9月12日、信長は軍勢を率いて三好三人衆討伐のため野田・福島に陣していた。顕如は信長打倒ため軍勢を率いて出陣。夜半、寺内の早鐘打って本願寺の門徒衆が織田軍の背後を襲撃した。突如本願寺の門徒衆が織田軍の楼岸の砦・川口の砦に向けて鉄砲を撃ってきた。9月14日、本願寺門徒勢と織田軍が淀川堤で激突した。この戦いは織田軍の勝利で終わった。門徒衆は大坂御坊に戻り籠城しました。

石山本願寺は籠城する構えを見せたので、信長は石山本願寺包囲する。その一方、9月16日、浅井長政・朝倉義景が挙兵して、信長を背後を突くため南近江に進軍してきた。浅井・朝倉連合軍は織田方の宇佐山城を攻める。顕如は比叡山延暦寺に浅井・朝倉連合軍に加勢して信長の背後を突くように要請した。(志賀の陣)顕如の檄で伊勢長島の願証寺が一向一揆を発生させた。11月には長島一向一揆は尾張に侵攻して、信長の弟織田信興が守備する古木江城を攻め落とし、信興は自刃した。
信長は志賀の陣で包囲されて既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、将軍義昭に働き掛けて朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わった。
1572年(元亀3年)に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、3月に顕如から万里江山の一軸を贈呈されている。7月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、顕如は武田信玄の仲介という形で信長と和議を結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。1573年(元亀4年/天正元年)年)に11月には白天目の茶碗を贈られたことに対しての謝礼をしている。
信長と顕如の両方は兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んであった。顕如は遅くとも元亀3年末ごろまでには、武田信玄や毛利輝元などと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っている。したがって天正元年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば冷戦よりややましな程度で推移していたと思われる。
信長包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槙島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には朝倉義景が自刃した。9月には小谷城で浅井長政が敗死。11月には三好宗家の三好義継も本拠若江城を織田方の佐久間信盛の攻勢を受け味方の裏切りにあって自刃した。、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目の茶碗」(はくてんもく)を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた将軍足利義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多門山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。
1574年(天正2年)2月20日、足利義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。

足利義昭の御内書は、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が浦上宗景、宇喜多直家と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が備中へ差し向ける軍勢を讃岐に向かわせることに対し
朝倉義景の領国であった越前には、義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌1574年(天正2年)の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく一向一揆のもちたる国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。
越前で越前一向一揆の奮起を知った顕如は、はじめ七里頼周を越前に派遣し、その後に下間頼照を越前守護に任じた。こうして、石山本願寺と信長の和議は決裂した。1574年4月2日に石山本願寺は織田家に対し再び挙兵した。本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長と戦っていたが、
それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず、長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢が捨て身の反撃を行ったため、信長は残る屋長島・中江の2個所を柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害した。
第二次石山合戦と第二次信長包囲網
天正3年4月に摂津の池田勝正・讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、織田方の堀城の城主細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三次康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に籠城した。顕如も連動で挙兵している。

織田信長はこの報を京都でうけて、配下の武将柴田勝家・明智光秀・筒井順慶・細川藤孝・荒木村重ら討伐軍を編成させて出陣させた。4月12日、織田軍勢が下八尾・住吉・天王寺に着陣し石山本願寺と高屋城の両面を攻めた。石山本願寺方面では住吉や天王寺を焼き討ちにし、石山本願寺から出軍してきた部隊と玉造辺りで合戦となった。しかし、これらの戦いについて詳しい事は分かっていない。4月28日に織田軍は抑えとして荒木村重と高山右近を残し撤兵した。
この年、織田軍は7月から9月にかけて、伊勢長島一向一揆を全滅させた。また、佐久間信盛・細川藤孝・筒井順慶・明智光秀・塙直政・森長可らが若江城に入城した。天正4年9月18日に飯盛山城や山城下で三好康長、顕如連合軍と激しい戦闘になり、飯盛山城を落城させ萱振城も落城し、高屋城下を放火している。
一旦兵を引いた織田軍だったが、1575年(天正3年)3月22日に信長は細川藤孝に対して、
「来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如し」(『細川家文書』)
という朱印状を与えた。秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めるよう命じたものである。また摂津住吉郡に、
「陣取り、放火、濫妨、狼藉、ならびに竹木を伐ち取るの事、停止せしめ畢。もし違反の輩においては、成敗を加うるべきの状、件の如し」という禁制を発し、同地域の安全を確保した
1575年(天正3年)3月、本願寺の一揆勢は大和田に大和田砦をつくり渡辺・神崎あたりまで進軍した。これに対して織田方の荒木村重が兵を送り本願寺勢に破れてしまったが、村重は策を巡らし、一揆勢を十三の渡し周辺に誘い出し攻撃を加え、大和田砦と天満砦を奪うことに成功する。

これを好機とみたのか、天正3年4月6日、信長は秋を待たずに京都を出発した。「辰刻、信長南方へ出陣す。一万余。室町通り五条へなり」(『兼見卿記』)とあり、当時京にいた信長は1万ほどを率いて出撃したようである。織田軍は八幡を経て、7日に若江城へ入城。8日には駒ヶ谷山に布陣し、高屋城攻城に動き出した。三好康長も高屋城の不動坂口より出撃し、双方激しい合戦となった。織田軍は高屋城の周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ捨てにした。

12日、織田軍は住吉へ移動。13日には摂津・大和・山城・若狭・美濃・尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来衆の増援軍が続々と到着し、総勢10万余の大軍となった。信長は天王寺を本陣とし、住吉・遠里小野にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。14日に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。16日には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。新堀城には十河一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日に堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門・搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。
新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にし降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。その後、設楽・長篠の戦いで甲斐の武田勝頼を破り、兵を十分に休めた後で動員令を発し、
信長は織田軍を率いて8月12日に越前に向けて進発した。一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きた。こうした越前一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、さらに加賀の南部まで攻め込んだ。9月には信長は北の庄に戻り、さらに岐阜へと戻って石山を牽制した。
本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行ったことを知った石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を詫び、さらに条書と誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった(実際には信長はまだ上杉・武田・毛利に挟まれており、信長にとっても和議は軍事上悪い話ではなかった)。
一方で中国地方ではこの年に毛利輝元は織田方へと寝返った備中の三村氏をで滅ぼし、備前。美作でも宇喜多直家と同盟して天神山城の戦いを後援し浦上宗景・三浦貞広を失領させ、大きく東へと勢力圏を拡大した。これによって毛利氏の軍勢は陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保して対織田を視野に入れた大坂の本願寺との連携が模索され始める。
天王寺の戦い
1576年(天正4年)春、顕如は、毛利輝元に庇護され、鞆にいる将軍足利義昭と与して、三たび挙兵した。4月14日、信長は明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や木津(大阪市浪速区)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、早朝、織田軍は木津に攻撃をかける。陣立ては先陣が三好康長・根来衆・和泉衆、2番手が塙直政・大和衆・山城衆である。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えた(精強鉄砲隊の雑賀衆が味方していた)。塙直政の軍勢がこの攻撃を引き受けて数刻の間戦ったが敵に囲まれ、直政は一族の塙安弘・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らと共に討死、三好康長は逃亡して軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲・攻撃、窮地に陥った明智光秀・佐久間信栄らは、京都に滞在していた信長に援軍を要請した。この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、5日に100人の兵を率いて若江城に入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。信長は軍勢の到着を待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決定した。翌日の7日、信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃した。天王寺を包囲している陣立ては3段で、先陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、2番手は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取った。なおこの時、信長は荒木村重に先陣を任せようとしたが、村重は木津方面の守備を引き受けるといって断った。(後に荒木村重が裏切った時、信長は「荒木に先陣をさせなくてよかった」と回想したという(『信長公記』))。本願寺勢は鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負った。合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。、石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城を住吉の浜手に要害を設け、塙直政の後任の司令官に佐久間信盛を任命して本願寺を完全包囲下に置いた。
第一次木津川口海戦
信長に経済的に封鎖された本願寺は、危機に堕ちり安芸の毛利輝元に援助を要請した。輝元は要請に応じ、(7月13日に村上元吉以下15名の注進状によると)、7月12日、淡路島の岩屋を出発した毛利水軍は、泉州の貝塚に渡り、紀州の雑賀衆と合流して、13日、堺津から大阪湾を木津川口に進んだところ、井楼を組みあげた数艘の大船とそれを囲む織田配下の真鍋氏、沼野氏、宮崎氏などで構成する警護船200余艘の織田水軍と接触、戦闘が開始された。戦いは13日から14日の早朝にかけておこなわれ、毛利水軍が数の利を生かして炮烙・火矢で織田水軍を破り、大船をすべて焼き崩す戦果をあげ、織田軍に包囲された本願寺に兵糧を入れることに成功した(第一次木津川口海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。
紀州征伐(雑賀攻め)
1577年(天正5年月2日、紀伊雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が、信長方に内応した。これを受けて、2月13日に信長は準備を整えた上で京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った(紀州征伐)信長率いる織田軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、紀伊に攻め入った。3月1日に雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てた。しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた
第二次木津川口海戦
木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼喜隆に、大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させた。九鬼嘉隆らの船団は伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった。雑賀衆はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)周辺の海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。しかし、嘉隆はこれに応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈し、7月17日に船団は堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。
1578年11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して、再び木津川河口に現れた。織田水軍は九鬼嘉隆の大船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも焙烙火矢で攻撃を繰り返した。しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、大船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した(第二次木津川口海戦)。
荒木村重の離反・毛利輝元の上洛断念
1578年(天正6年)10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。時を同じくして、中国方面軍の羽柴秀吉が別所長治の三木城を攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。これを機に信長は朝廷を動かして、本願寺や毛利氏との和解を試みた。
石山本願寺との講和
11月4日、信長が朝廷を動かした結果、本願寺に対して信長と講和するように正親町天皇の勅命が下され、観修寺晴豊・庭田重保が勅使として本願寺に派遣された。信長としては村重を再三説得するための時間稼ぎであったが、本願寺は信長との和睦は飲めるが、毛利輝元とは「近年の芳志」があるとして、本願寺単独での和睦を拒否した。そのため、信長は本願寺のみならず毛利氏とも和睦する方針を取り、輝元に対しても勅使の派遣を計画した。
しかし、その直後の11月6日、織田水軍が第二次木津川口海戦において毛利水軍に大勝し、11月24日に茨木城が開城すると、信長は朝廷へ使者を急遽飛ばし、毛利氏への勅使派遣を中止させ、和平交渉を取りやめた。その後、信長は村重攻略を進め、また村重の謀反自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、謀反自体は長期にわたったものの、本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
このような状況下、毛利輝元自らが軍勢を率いての上洛が計画されるようになった。そして、12月に輝元は出陣を決意し、その出陣の日は1579年(天正7年)1月16日と定められ、諸将に下令された。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している。だが、輝元の上洛計画は毛利氏内部の動揺によって、期日を過ぎても実行には移されなかった。輝元が上洛を断念したことは、自らが救援するはずだった三木の別所氏、摂津の荒木村重のみならず、大坂の本願寺をも見捨てることを意味していた。
毛利氏の援軍も見込めなくなったことにより、本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めたほか、1578年(天正7年)10月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあって、12月には恒久的な和議を検討するようになり、朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を密かに伝えた。その動きを期待していた信長側でも再度、朝廷に講和の仲介を働きかけていた。
1580年(天正8年)1月、三木城が落城した。毛利輝元や武田勝頼の苦戦、上杉氏の没落、有岡城や三木城における虐殺などによって、本願寺内には厭戦気分が高まっていた。そのような状況の中で、3月1日、朝廷は勅使として勧修寺晴豊と庭田重保、さらには近衛前久を本願寺に遣わし、本願寺側との妥協点を探った。このとき、信長は佐久間信盛と松井友閑を目付として、勅使に従わせた。また、近衛前久は開戦の経緯を知る人物であり、信長から本願寺との講和交渉で期待されていた。勅使らが年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものといえる。
3月17日、信長が本願寺を惣赦免するとの血判起請文を作成し、勅使に提出した。これは、顕如の大坂退去や、尼崎城や花熊城を明け渡すなど、本願寺への事実上の降伏勧告であった。
閏3月5日、本願寺顕如が信長の出した起請文を受諾し、勅命講和となった。顕如が講和に応じた理由としては、このまま戦い続けたとしても、有岡城や三木城と同様の虐殺が起こりうることを懸念したことを、末寺や門徒らに伝えている。
こうして、信長と本願寺は3度目の講和を果たした。条件は顕如ら門徒の大坂退城など、以下の通り。
覚
一 惣赦免事
一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事
一 人質為気仕可遣之事
一 往還末寺如先々事
一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事
一 月切者七月盆前可究事
一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事
三月十七日 朱印(信長)
(「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行)
この他、『信長公記』には、退城の期限は7月20日だったと書かれている。また、講和条約に署名したのは、顕如の3人の側近である下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝だった。
1580年4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷲森御坊に退去した。しかし、雑賀衆や淡路門徒は大坂御坊に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後も、石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた(大坂拘様)。
7月2日、顕如は3人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して、荒木村重が花熊城で敗れ去るなどの情勢悪化や、近衛前久の再度の説得工作によって、石山の受け渡しを教如派も受け入れて、8月2日に雑賀に退去し、大阪の地は信長のものとなった。
しかし、石山本願寺は引き渡し直後に出火し、三日三晩燃え続けた火は寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では、松明の火が風で燃え移ったとされている。『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。
1580年8月、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由の1つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。
また、信長と石山本願寺の交渉の影には、森成利(森蘭丸)の母の妙向尼がいた。妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。森成利を通じて情報を得た妙向尼は、信長と面会し、直談判をして信長の石山本願寺の追撃を断念させた。信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。


まとめ
石山本願寺との戦いは10年の長期化した。信長は当初から望んでいた大坂の地を手に入れた。信長は後に秀吉が大坂城を築城したように、信長は秀吉と同様に大坂城を築城を考えたと思います。例えば信長は本願寺との講和の中で惣赦免の事という項目を入れたことは、信長は過去の本願寺との因縁を白紙しても、本願寺などを許したことがは余ほど大坂の地を無傷に手に入れたいと思っていたからである。
顕如は信長に対して挙兵した理由が「本願寺の地を明け渡し」を要求でしたことになっているが、当時本願寺側が三好三人衆・足利義栄と通じていて挙兵したという意見もある。また天正元年、信長と顕如が講和していたが、翌天正2年になって信長との和議を破って挙兵したことは、要因の一つになっていることは、信長が足利義昭を追放したことと。もう一つは顕如はを信長が地方の大名出身であることから「虫けら」とみていました。自分が准門跡(門跡が皇族出身なので、同様な扱いになっており)であるため、顕如は信長を「虫けら」とみているので、信長の交わした和議を反故したぐらいたいしたことない感情があったからです。その後、顕如の支援に毛利輝元や別所長治謀反と荒木村重の謀反があり、信長の争いが長期化した。、
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