広島県東広島市西条で毎年10月に西条祭り(酒祭り)が開催されます。特に日本酒だけで煮たシンプルな味付けの美酒鍋は西条の名物です。その西条市内から広島大学に行く途中に鏡山公園があります。その公園全体が鏡山城跡になっており。鏡山城本丸まで徒歩30分で登れます。鏡山城は戦国時代に大内氏と尼子氏の争いの城でした。この鏡山城の合戦は安芸の国人の毛利元就が毛利家の当主になるきっかけになった合戦です。では鏡山合戦とは、どのような合戦だったか見てみましょう。
鏡山城の戦い以前の安芸国の情勢
鏡山城は安芸西条(現東広島市)にある山城で、安芸国支配を目論む周防・長門の戦国大名の大内氏が1457年~1466年(長禄・寛正年間)に築城した。大内氏の安芸制圧の拠点としていた。
1522年(大永2年)、大内義興は家臣の陶興房を総大将として安芸に派遣しました。大内の軍勢は3月から8月まで5ヶ月間滞在して、新庄小幡城(現・広島市西区新庄町)や大塚(現・広島市安佐南区沼田町大塚)を攻めるも、安芸武田氏の防戦により特段の戦果はなかった。
1523年(大永3年)4月、かつて大内義興が厳島神社領を事実上の直轄領化したことを恨みに思っていた友田興藤が安芸武田氏に通じて挙兵し、左西郡内の諸城にいる大内氏の城番を放逐した上で桜尾城に入城して厳島神社の神主を称した。この時、大内氏による支配強化に反発した厳島神領衆の多くが友田興藤を支持したと見られている。このような安芸国における反大内氏勢力の拡大を安芸国や備後国へ勢力を伸ばす好機と見た出雲国の戦国大名尼子経久は、1522年6月上旬に自ら兵を率いて安芸国に出陣しました。石見国との国境に近い安芸国高田郡北池田に在陣しました。
尼子経久は重臣の亀井秀剛を吉田郡山城に派遣し、毛利氏に服属を勧告しました。当時吉川氏を介して尼子氏との縁戚関係にあった毛利氏は服属を決め、毛利氏は大内氏方から尼子氏方に鞍替えしました。
鏡山城の戦い(大永3年6月13日~6月28日)
尼子経久は大内義興方の蔵田房信が守る安芸国賀茂郡西条の鏡山城攻め決行した。毛利氏では毛利氏当主の毛利幸松丸が自らが出陣することになった。後見人の毛利元就も毛利幸松丸を助ける名目で毛利勢を率いて出陣した。1523年(大永3年)6月13日毛利元就は平賀弘保・吉川興経ら4000の軍勢と共に鏡山城に進軍しました。大内方は蔵田房信とその副将として叔父の蔵田日向守直信が鏡山城に入り、尼子軍を迎え撃った。房信率いる大内軍は手強く、攻めての尼子軍を容易に城へ寄せ付けず、戦線は膠着状態に陥った。そこで毛利元就は一計を案じ、蔵田家の家督を継がせることを条件に蔵田日向守直信を尼子側に寝返らせました。直信が守備する鏡山城二の丸に尼子軍を手引きさせた。尼子軍の侵入を許した鏡山城内は大混乱をきたした。城将の蔵田房信は本丸に籠もって最後の防戦を一昼夜続けるが、6月28日に落城した。蔵田房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自刃した。


鏡山城落城後、尼子経久は蔵田房信の申し出は承認したものの、蔵田直信については寝返りを非難して処刑を命じた。元就は策の約定を反故にされた。さらに毛利氏の戦功は全軍で一番であろうことは明らかであったにもかかわらず、尼子氏は毛利氏へ恩賞を与えなかった。この攻城戦が終わり、経久は毛利元就を警戒し、元就は尼子経久に不信感を抱いた。
毛利幸松丸の急死と毛利元就の飛躍
鏡山城攻めから安芸郡山城に凱旋する道中に毛利幸松丸が発病し、1523年7月15日に病死した。享年9歳。なお、発病の原因については、幸松丸は鏡山城は敵将の首実検を嫌がったが、家臣達が無理矢理立ち合わせ、幸松丸は敵の生首を見て衝撃を受けたためとする逸話がある。
1523年(大永3年)7月15日に毛利氏当主の毛利幸松丸が死去したため、郡山城では、毛利氏の重臣たちが集まって、後継者を誰にするか協議した。2、3人の重臣が元就の異母弟である相合元綱を擁立しようとしたが、志道広良を筆頭に福原広俊・桂元澄ら多くの重臣は多治比猿掛城主の毛利元就を当主に推挙した。1523年7月19日に渡辺勝・井上元兼が自ら多治比猿掛城を訪問して、元就に家督相続を要請した。また志道広良も国司有相・井上有景を使者として元就のもとに派遣して家督相続を要請した。さらに、元就の被官であった中原某、平佐右衛門大夫、宗右衛門、木工助、左衛門尉も元就の家督相続を強く勧めてきた。元就ようやく家督相続に同意した。
毛利元就の家督相続が決まったため、志道広良は出雲の尼子経久のもとに使者を派遣して元就の家督相続の了承を取り付け、7月25日に志道広良や福原広俊ら毛利氏の重臣15名が連署して、元就の家督相続受諾を慶ぶと共に、少しの他意も無く元就を奉じて忠誠を尽くすことを誓約して、元就の郡山城への入城を要請する起請文が作成された。また、同日に吉田郡山城と同じ山中にあった満願寺の僧侶である満願寺栄秀が毛利元就の吉田郡山城への入城の吉日良辰を占ったところ、8月10日の申酉の刻という結果になったことを満願寺栄秀と平佐元賢が志道広良に伝えている。
1523年7月27日、志道広良は重臣15名による連署起請文を届けて8月10日に吉田郡山城に入城してほしい旨を元就に伝えるように井上有景に対して命じた。再び使者となった国司有相・井上有景によって多治比猿掛城の毛利元就のもとに連署起請文が届けられた。元就は卜占の結果に従って8月10日に吉田郡山城に入城した。
(毛利氏当主となった毛利元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱」という発句を詠んでおり、「就」の字を含む鷲の羽に武門の家を象徴させ、次男の身で惣領家に入った決意を語ったものと解釈されている。)
相合元綱の乱(毛利家お家騒動)
毛利氏重臣の協議により毛利元就が家督を相続してから、しばらくして、元就の家督相続に不満を持っ勢力が現れた。その勢力は毛利氏重臣の渡辺勝で、尼子氏重臣亀井秀綱と密に連絡を取っていた。両者は不穏な動きを見せ始めていた。渡辺勝・坂広秀・桂広澄ら有力家臣が、尼子氏の支援で元就の異母弟である相合元綱を擁立しようとした。毛利家内で、元就が大内義興寄りであるのに対し、渡辺勝・坂広秀・桂広澄は、それに反対して尼子経久の後ろ盾で毛利家を拡大しようといていたのである。
毛利家の家督を相続したばかりの元就は、家中の反元就の動きを放置するわけにいかず、1524年(大永4年)4月8日に元就は行動に出て、志道広良に300の軍勢を率いさせて、相合元綱の居城船山城を攻めました。元就の軍勢300と少数だったが相合元綱を見事討ち果たしました。元綱打ち果たした元就は、元綱方の渡辺勝・坂広秀・桂広澄らを誅殺した。元就はこの事件を弟の相合元綱による謀反ではなく、尼子氏による不当な介入の結果と捉え、粛清対象を直接の関係者に限定してその子弟にまでは累を及ぼさない方針を採った。渡辺勝の子である渡部通は乳母に連れられて備後国の山内直通のもとに逃れ、坂広秀の子とされる坂元祐(坂保良)や桂広澄の四男である桂保和は、坂広明の娘が嫁いでいたが、その縁を頼ってか平賀弘保のもとに逃れているが、渡辺通と坂保良は後に毛利氏に帰参し、桂保和も平賀氏と毛利氏に両属することとなる。また、桂広澄の嫡男である桂元澄が元就の意向で助けられて桂氏の家督を相続したことが、1553年(天文22年)12月29日に元就の嫡男毛利隆元が桂元澄に宛てた書状に記されている。さらに、相合元綱の幼い嫡男も助命されており、成長してからは敷名元範と名乗って他の毛利氏の親類衆と同様の地位に付けられている。


まとめ
鏡山城の合戦は、普通の地方の小さい合戦だけど、結果でみれば、毛利元就を毛利家の当主させ、毛利元就を誕生させたと意味では重要な合戦だったかもしれない。
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