北条時政・義時父子の抗争の犠牲なった源氏一族の平賀朝雅

 鎌倉・南北朝・室町時代

    はじめに

  NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する平賀朝雅(演山中祟さん)は大河ドラマで嫌味な悪役風に演じてましたが、北条時政の娘婿で、畠山重忠の乱で畠山重忠父子が謀反していると讒言し、畠山重忠を討伐に加担しています。牧氏事件で首謀者の一人として北条義時の派遣した軍勢に討たれました。平賀朝雅が出てくる史料『吾妻鏡』は執権北条氏にいいように描かれてます。平賀朝も悪役に描かれてます。実際の平賀朝雅は本当にそうでしょうか?

       平賀朝雅の生い立ち

 平賀朝雅についてを話す前に、まず彼の生い立ちを話します。朝雅の祖父は新羅三郎義光の四男源盛光で、信濃国佐久郡平賀に土着しました。本貫地から名を取った平賀氏を名乗りました。父平賀義信は治承。寿永の内乱で伊豆の源頼朝の挙兵に呼応して、横田河原で木曽す義仲に加勢ました。その後、平賀義信は頼朝に積極的に参加に入り、重用されました。1184年3月、義信の子大内惟義が伊賀国の守護に任命されると、1184年6月、義信は頼朝の推挙で武蔵守に任命されました。

1185年(文治元年)9月、勝長寿院で行われた源義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義が源義隆の遺児源頼隆と共に遺骨に近侍することを許されるなど、義信への頼朝の信頼は最後まで変わらず、この時期の席次において源氏門葉として御家人筆頭の座を占めている。また平賀義信頼朝の乳母の比企尼の三女を妻とし、二代将軍源頼家の乳母父となった。1199年の源頼朝死後も源氏一門の重鎮として重きをなした。行事交名を見ても、義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。これは義信が源氏一門(門葉)の首座にいたことを示している。

    平賀朝雅の比企の乱活躍と京都守護になる

 平賀朝雅平賀義信の四男で、母は比企尼の娘で、父が頼朝の息子源頼家の乳母父の関係から頼朝の猶子となっており。頼朝から一字を貰って、諱を「朝政」と名乗りました。

頼朝の死後、乳兄弟の源頼家が二代目鎌倉殿になると、13人の宿老達と頼家を補佐しました。その前後北条時政と後妻の牧の方の娘と結婚しました。、1202年(建仁2年)3月14日、永福寺で頼家と北条政子と共に平賀義信・朝雅父子は頼家の乳母を務めた比企の尼の三女の供養を行っている。1203年(建仁3年)9月に起こった比企能員と北条時政の対立から発展した比企能員の乱では、比企氏と北条氏双方と縁戚関係を持つ平賀朝雅は、苦悩の末、妻の実家の北条氏のに加勢しました。北条義時の比企氏討伐軍に加わり比企氏を滅亡させました。2代目鎌倉殿の源頼家が伊豆修善寺に追放されたと直後、頼家の弟源実朝が12歳で3代鎌倉殿に就任すると平賀朝雅は鎌倉での政変で動揺に乗じた謀反を防ぐために、西国の領地がある武蔵の御家人を率いて京都守護として京都に入った。

        三日平氏の乱

 1203年12月平家の残党若菜五郎盛高が軍勢を率いて、伊勢の伊勢守護山内首藤経俊の館を襲撃した。経俊は逃亡。平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて、再び反乱の兵を挙げた。

 山内首藤経俊はこの襲撃事件をは平氏の反乱の兆しとは気づかず、12月25日に侍所別当和田義盛が幕府に事件の張本を伊勢国員弁郡の郡司進士行綱と報告した。1204年(元久元年)2月行綱は召し捕られ囚人とされた。しかし同2月、伊賀で平維基(平維盛の子とされる)の子孫らが、伊勢で平度光(忠光の子、盛高と兄弟か)の子息らが蜂起しました。伊勢・伊賀両国の守護の経俊が赴いたが問答無用で襲撃され、無勢の経俊は逃亡した。伊勢・伊賀は完全に制圧され、反乱軍は鈴鹿関や八峰山(現在の八風峠)等を通る道路を固めてしまった。

 この報告を受けた幕府は、1204年(元久元年)3月10日、ついで3月29日に京都守護の平賀朝雅に京畿の御家人達を率いて伊勢・伊賀両国へ出陣することを命じた。京都では反乱軍の勢力は千余人に及ぶとの風聞があり、3月21日に後鳥羽院の御所で議定があり、伊賀国を平賀朝雅の知行国と定め、追討の便宜を図った。翌3月22日、平賀朝雅は軍勢は200騎を率いて出陣した。反旗は伊賀国に翻ったものの、反乱の中心地は伊勢北部の朝明郡・三重郡・鈴鹿郡・安濃郡・河曲郡の諸国および中心の多気郡であった。追討軍は3月23日、都を出て征途に上った。反乱軍が鈴鹿関を塞いでいるため、近江国からは進軍できないで美濃を経由して、27日に伊勢国に入った。追討軍は作戦を練った上で4月10日から合戦に及び、まず富田基度(曾孫に平親真)が拠る朝明郡の富田舘(現三重県四日市市東富田町)を襲い、数時間合戦を続け、富田基度・松本盛光兄弟、安濃郡の岡八郎貞重とその子息・親族等を撃破した。さらに多気郡に進んで庄田三郎佐房とその子師房と戦い、六箇山の三浦盛時、そして関の小野(現亀山市)に拠る張本の若菜五郎を破りました。若菜五郎は戦死。同12日、反乱はほぼ3日間で鎮圧され、その後伊賀国の残党も追討された。(三日平氏の乱)

 乱後、幕府では5月10日に論功行賞が行われ、山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護を剥奪され、平賀朝雅が兼務することとなり、謀反人の所領は平賀朝雅に与えられた。

     (若菜五郎が籠った若狭城跡)

      畠山重忠の乱

1204年(元久元年)11月、京の朝雅邸で、鎌倉殿(将軍)源実朝の妻坊門信清の娘(西八条禅尼)を迎えるために鎌倉から上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で平賀朝雅畠山重忠の嫡子畠山重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた北条時政牧の方の子北条政範が病で急死した。そして政範の埋葬と、重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。『島津家文書』によると、北条時政は娘婿であった畠山重忠父子を勘当したが、1205年(元久2年)に千葉成胤のとりなしによって両者はいったん和解している。しかし、重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、北条時政の息子である北条義時・時房は、畠山重忠とは義兄弟かつ友人関係であり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした(畠山重忠の乱)。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった。ただしこの経緯は父を追放した義時らの背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある。

また北条政範の死は北条氏の家督問題を引き起こしたと考えられる。北条氏の嫡男は元々は北条義時の同母兄であった北条宗時と推定されるが、宗時が石橋山の戦いで戦死した後、後妻の牧の方が生んだ政範が嫡男とされ、前室の子であった義時は北条氏の庶流である「江間家」を起こして源頼朝に近侍し、将来的には庶長子の北条泰時が江間家を継ぐ予定であったと考えられている。しかし、政範の死で今後のことが不透明になってしまった。

    牧氏の変と平賀朝雅滅亡

1205年(元久2年)閏7月19日、北条時政と牧の方が源実朝を廃して、頼朝の猶子で京都守護の平賀朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとしているとの噂が流れた。北条政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景らを遣わして、北条時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政に味方してていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方した。義時邸は警護の御家人らの軍勢に固められた。時政・牧の方の陰謀は完全に失敗しれしまった。

  なお、北条時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある。だが最も同時代に近い『愚管抄』では牧氏の変の首謀者を一貫して北条時政としており、『吾妻鏡』は北条氏の祖である時政を擁護するために牧の方を事実以上の悪役に仕立てているとする見解もある 

 牧氏の変で失敗した北条時政・牧の方は鎌倉で完全に孤立無援になってしまった。時政と牧の方は出家しました。翌7月20日に北条時政は息子北条義時・時房によって鎌倉から追放され、伊豆国の北条へ隠居させられることになった。

 同日、北条義時大江広元安達景盛らと協議して平賀朝雅の討伐することを決め、京に使者を派遣し、在京御家人に朝雅討伐を命じた。閏7月26日に平賀朝雅は後鳥羽上皇の仙洞御所で囲碁会に参加していた時に、幕府から討手が来ていることを小舎人の童から伝えられたが、驚いたり動じたりせず座に戻って目数を数えた後で、関東より討伐の使者が上ってきたことを上皇に伝えて身の暇を賜ることを言上した。平賀朝雅の邸宅を在京御家人が取り囲んだ、朝雅しばらくは邸宅から討って出て合戦していたが、攻撃する御家人達が朝雅邸に火を放ったため、平賀朝雅は邸宅から出て近江大津の方へ落ちっていた。わざと退路を開けて落ち延びさせようとしたようで朝雅は山科(現在の山科区)まで着いたが、在京御家人が追撃もあり、その場所で平賀朝雅は在京御家人の山内須藤六郎通基に討ち取られた。朝雅の首をとって持参したので、後鳥羽上皇も御車に乗って大炊御門の面まで出てそれを実検したとある。

    (大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より在京御家人によって館を襲撃される平賀朝雅)

      牧氏の変のその後

 鎌倉殿を支える執権職に北条義時が就任して幕府内の実権を握った。伊豆北条に配流された北条時政は、幕府に戻ることなく1215年(健保3年)北条で腫物のため死去しました。時政死後、後妻の牧の方は平賀朝雅はの元妻で公卿の権中納言藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。

 牧氏の変は源実朝を先に保護した北条義時・北条政子のラインの方が有利な状況になり、北条時政・牧の方のラインのクーデターは出鼻をくじかれ未然にふさがれてしまった。平賀朝雅は結局、北条氏に利用されて最後は殺されてしまった。ある意味北条氏の政争の被害者であり、または北条氏による源氏一族根絶やしの被害者という見方もある。これ以後執権北条義時の時代になる。

(伊豆北条の願成寺にある北条時政の墓)

  

  

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