戦国時代にあった宗教戦争「天文法華の乱」とは

戦国・織豊時代

         はじめに

 京都では、先の大戦といえば、太平洋戦争や幕末の動乱でなく、たいていの人は応仁の乱と言います。そう言われるぐらい。応仁の乱以来、京都市内を焼く戦争は起きてないと思われてますが(特に年配者)それほど平和な都市だと思われがちですが、実は戦国時代に応仁の乱以上に京都市内が大火になった事件があります。その事件は宗教同士の戦争で天文法華の乱です。天文法華の乱とは天台宗と日蓮宗の争いです。なぜそのようなことになったのか話します。

   京都における日蓮宗の広まり

 1294年(永仁2年)、日像が京に入すると、1307年(徳治2年)、延暦寺・東寺・仁和寺・南禅寺・知恩院などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。日像は追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏した。1309年(延慶2年)、日像は赦免され、京都へ戻った。

1310年(延慶3年)に諸大寺から朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。1311年(延慶4年)、赦免された。京都へ戻る。1321年(元亨元年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜って妙顕寺を建立した。

1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。それに伴い、僧正僧都に任じられるものが多くなると、同じ法華経を名乗ってる延暦寺の反発が起こった。

 松本問答

1536年(天文5年)3月3日、比叡山延暦のの西塔の僧侶華王房(けおんぼう)が、京都の一条烏丸観音堂の高座で説法をしていました。3月11日、上総国茂原の妙光寺の檀那松本久吉松本新左衛門久吉)が烏丸観音堂へお参りした際、華王房が真言の即身成仏を説きつつ、日蓮宗一派の宗旨を誹謗していた。松本久吉は説法おお聞きになった。久吉は高座へ近寄って、華王房の前で十数件の問答を行った。

【問答の内容は

松本、「あなたが末世の宗徒が仏になることを知っているか 」

華王房、「末世の宗徒は自力では成仏するのは難しい。他力を頼み、仏の加護にすがるべきだ 」

松本、「そんなことは理解できない。他力の仏を頼むより、自力の妙法蓮華経の持つ功徳のほうがずっと優れれいる」

華王房、「釈迦・大日如来などの諸仏は皆同じで、ゆえに仏の力を頼むのだ。あんたの信じる日蓮は弥陀を誹謗する。だから法難に遭うんだ 」

松本、「釈尊は法華経はお経の中で1番といっているのに、あんたの宗門の祖最澄は3番目と言っているし、法華経を戯論と言っている。これこそ仏を軽んじる罪人の所行ではないのか。だから山門は国を滅ぼすのだ。」

華王房「法然は弥陀を信仰しているのに、日蓮は無間地獄という。これはどういうことだ。」

松本、「法然によって立つ宗旨念仏は、最悪の罪である五逆の罪より重い。それに対して日蓮の言葉と釈尊の金言は符号している。それに気付かず妄言ばかり言っているあんたは人々を迷わす大罪人だ。」

華王房、「(怒りだして)何を言おうが弥陀の名はありがたいのだ。法然の教えは貴いのだ。」

松本、「何だと!法然は天台仏心・真言・三輪等みな賊徒だと「選択集」に書いてあるではないか。だからあんたたち山門の奴らは「選択集」を焼き捨て、法然の死体を賀茂川に流したのだろう。天台宗総本山の比叡山に住むあんたが法然を貴ぶとはどういうことなんだ。法然はあんたたち山門の敵ではなかったのか。問答に負けまいとして言い逃れする気か。」

華王房、「もう何も言えない状態。」

松本、「では約束どおりにさせていただく(華王房の袈裟をはぎ取る)」】

問答の末に華王房が閉口すると、松本久吉華王房を高座より下ろし、袈裟衣を剥ぎ取った。聴衆の面前での出来事に、華王房は恥をかき、もう一度論じようと松本久吉を訪ねた。しかし、松本久吉は宿を去った後だった。以上『松本問答』『松本問答』延暦寺の僧華王房松本久吉との間に発生した宗論の経過を記した書物の名前である。

天文法華の乱開戦の前夜

 松本久吉華王房の問答の末、延暦寺西塔の華王房が、日蓮宗の一般の宗徒に論破されたことが噂で広まると、これで面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。しかし、幕府は1334年(建武元年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とししました。この裁判の判決でも延暦寺敗れました。(今谷明氏は、「幕府はあえて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとしている。」

 1536年5月23日に法華宗が相国寺に陣取るとの噂が立ったことが記されている。(鹿苑日録記)この噂により、蔭涼軒主は将軍に謁見し、防備を強化することを伝えた。5月29日に相国寺の堀溝を掘る。6月16日に東門の堀に櫓を設けた。こうした中で、両者を調停する者が出た。5月29日に近江の大名の六角定頼が上洛してきて、7月に木澤長政も調停に動く。しかし、延暦寺と日蓮宗の調停は成立しなかった。

6月1日、延暦寺は会議を開き、京都の法華衆の撃滅を決議した。決議した内容は朝廷へ奏達、幕府へ言上をした。

7月に比叡山延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払えば、兵を引きあげように迫った。だが、日蓮宗は延暦寺のこうした要求を拒否。

 要求を拒否された延暦寺は朝廷室町幕府に法華衆討伐の許可を求め、同時に越前の大名朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・東寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。なお、本願寺は7月7日に3万疋を送っている。

   天文法華の乱

  延暦寺と日蓮宗の双方の兵力延暦寺の兵数は、『祐雑記』によると15万、『厳助往年記』には6万、または『二条寺主家記』には、本寺末寺合わせて3万、これに近江の大名六角定頼が3万余、三井寺からは3千騎出陣したと記されている。対して、法華宗側の兵力は、『祐雑記』にると21ヶ所の寺を合わせて2万騎余りだと記されている。

1536年7月20日頃、比叡山延暦寺は諸国の末寺から集めた数万にものぼる僧兵を、東山の山麓に配し、六角定頼・義賢父子や蒲生定秀らに率いられた近江の軍勢3万が東山に布陣、その北には三井寺の3千騎も布陣し、京都の北・東を完全に遮断した。これに対し、法華宗も21の諸寺から2~3万の宗徒が洛中やその周辺での防備を固めた。

7月22日、両者は松ヶ崎での合戦で、両軍の戦端が開かれた。(『鹿苑日録記』7月22日条には、法華宗が先に撃ちかけた、と記されているが、延暦寺が先としているものもある。)合戦は7月27日まで続いた。法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利とされていた。

7月27日に六角軍が四条口より攻め入って、法華宗の21ヶ所の寺に火を放った。

 法華宗の21ヶ所の寺は、(本満寺・妙顕寺・頂妙寺・妙傳寺・立本寺・本圀寺・本法寺・妙覚寺・妙蓮寺・本隆寺・本禅寺・住本寺・上行寺・妙満寺・本能寺・寂光寺・学養寺・大妙寺・弘経寺・宝国寺・本覚寺)21の寺院うち本圀寺以外の20か所の寺院が焼け落ちた。

 *本能寺は「本能寺の変」での全焼の方が有名ですけど、この法華の乱でも全焼しました。

7月28日には本圀寺も焼失した。

この戦いで、法華宗側の戦死者は1万、または3、4千、あるいは千人ともいわれている(天文法難)。

さらに延暦寺・六角軍が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は、応仁の乱を上回るものであった。また京都市内の被害は江戸時代の天明の大火に匹敵していた。

      (天文法華の乱で大火となった京都市内)(イメージ図)

天文法華の乱の後の京都

隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅してしまった。法華衆徒は洛外に追放され、その多くは堺に逃れた。1536年(天文5年)閏10月7日、細川晴元は3ヶ条の禁令を法華宗へ出した。この3ヶ条によって、法華宗の僧侶は京都内外の徘徊、還俗と他宗への移籍すること、日蓮宗の寺の再興が禁じられた。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542年(天文11年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が下った。天文15年に延暦寺から勅許に対して抗議があった。これに対して、法華宗は六角定頼を頼り、両者の間で調停が持たれた。

1547年(天文16年)、六角定頼の仲介で、延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。その後、日蓮宗の21本山のうちの15か寺が再建された。本圀寺は和議が成立した年の8月10日に本堂を再建し、本樽遷座式が行われた。

            (現在本圀寺の本堂)

コメント

タイトルとURLをコピーしました