5代将軍徳川綱吉の政策「生類憐みの令」は実は悪法ではく、江戸時代の武士達の殺伐とした意識を画期的に変えた政策だった。

江戸時代

 皆様は生類憐みの令と聞くと何を思い出しますか?やはり、お犬様とか動物愛護の極端な法令、または綱吉が出した悪しき悪法でしょうか?筆者も学生時代は同じように思いましたが、しかし、ある一冊の本を読んでから、この法令に対し疑問に思うようになりました。その本のタイトルは山室恭子氏の『黄門様と犬公方』(1998年)です。なぜ疑問に思ったか話します。

          元和偃武と戦国時代以来の殺伐とした気風

 1615年豊臣氏滅亡で、戦国時代以来戦乱の世は終わり告げました。徳川幕府は世の中が平和になった意味で元和偃武を出しました。徳川幕府は刀や槍で戦場戦った武士たちの職業を事務方に配置変えを実行。不満を持つ武士が多く出て、その一方で、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の時期は武断政治で、諸大名を改易しました。(特に豊臣系の大名福島正則・最上義俊・蒲生氏・肥前加藤氏など、あと身内から松平忠輝・松平忠直など譜代大名ら多くの諸大名を改易。)徳川幕府は大名の臨終で養子を決めること(末期養子)を認めず。これにより、諸大名の改易が増えました。また武士たちは、戦がなく日に日に不満が積もり、刀を使うため夜な夜な町に出て町人など辻斬りや浮浪者狩りをしました。町では、町人が侍と肩ががぶつかっただけで、「切り捨て御免」と切り殺す殺伐としてました。また第3代将軍徳川家光も江戸市中に出ては刀の切れ味を調べるために町人に対し辻斬りしたと伝わっています。荒木又衛門の伊賀越えの敵討ちや旗本奴の水野十郎左衛門と町奴の幡随院長兵衛の殺し合いなど、この時期は、まだ武士達は戦国以来の殺伐とした意識を持ちを斬る習慣が完全に変わっていませんでした。

            水戸光圀と浅草観音の浮浪者

テレビ時代劇『水戸黄門』で有名な水戸光圀こと徳川光圀も、若いころは不良で、よく不良仲間とつるんでは、町人などで辻斬りしたりしてました。また「光圀は酒飲んで酔うと癇癪持ちで口より刀を振り回すほど。ある時、光圀は仲間共に浅草観音に行き、そこにいる浮浪者を新刀の切れ味のため斬り殺しました。その浮浪者は命乞いしましたが、光圀達はを容赦なく斬り殺したのです。ですので、旗本奴の水野十郎左衛門と町奴の幡随院長兵衛で有名な浅草界隈でも光圀の悪行は知れ渡っていました。徳川御三家の水戸家の坊ちゃんであった徳川光圀も、平気で人殺しをする時代であった。

     (若いころ浅草観音で浮浪者を切り殺した徳川光圀)

   5代将軍徳川綱吉の誕生

こうした中、1680年(延宝8年)5月8日に徳川幕府4代将軍徳川家綱が死去した。享年40歳 (満38歳没)。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れました。(跡取りがいないので、大老酒井忠清は鎌倉時代の将軍源実朝の死後、京から宮さまが将軍になった例をならない。越前松平家と縁のある有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、堀田正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある。) 家綱の養子資格があった甲府宰相徳川綱重はすでに病死していたので、弟の館林宰相徳川綱吉が家綱の養子になり、さらに将軍宣旨を受けて徳川幕府5代将軍に就任した。

   天和の治(綱吉の善政)

 綱吉は将軍に就任すると、まず、自分の将軍就任を邪魔した酒井忠清を罷免して、大老職に堀田正俊を起用。その忠清が判決下していた越後高田藩のお家騒動に介入し、越後高田藩の騒動の処分を堀田正俊に再審させた。(越後騒動)諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、また前将軍家綱を陰で「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した将軍権威の回復を務めた。また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用させた。山内豊明を若年寄に、南部直政・相馬昌胤を側用人に起用するなど外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。

 また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和・河内両国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。

  側用人制度と生類憐み令

綱吉の治世で前半期は天和の治と呼ばれるが、1684年(貞享元年)8月28日江戸城で大老堀田正俊が大叔父の若年寄稲葉正休に刺殺される事件が起きると綱吉は大老職を置かなった。この事件以降、老中・若年寄の幕閣が政務を行う場所は、将軍の応接所である中奥御座之間から、表と中奥の間に新たに設けられた御用部屋に移動した。このため綱吉と幕閣の間に距離が生じた。

 綱吉は幕閣と自分の間の取次に柳沢吉保・牧野成貞ら側用人に任命させた。側用人は徳川幕府における御側御用人(おそばごようにん)とも呼ばれ、征夷大将軍の側近であり 、将軍の命令を老中らに伝え、また、老中の上申を将軍に取り次ぐ役目を担った。 将軍近侍役の最高位にあたり、従四位下位に叙任せられる。 5000石級の旗本で、将軍の側衆として枢機に与る者の中から選任され、特に重要事項の伝奏を役目とした。

 つまり側用人制度は、今までは制度化していた老中審議で決まった法案を将軍が決裁して法案を通すやり方を。綱吉はそこを改革して、老中審議で決まった法案を一旦側用人が吟味してから綱吉が決裁して法案を通し、ダメな場合は側用人が老中にダメ出しをしする。よい場合は綱吉が老中に直接返し、法案が通るようにワンクションをいれた。

【将軍】→→→ ↓(よい場合)(側用人制度)

↓↑      ↓

【側用人】   ↓

↓↑      ↓

【老中】→→  ↓

    側用人制度ができて、特に側用人柳沢吉保の権力は上昇し、老中以上の実権をふるった。吉保は老中以上の上格大老と呼ばれていた。

    

     

         生類憐み憐み令

 綱吉が出した有名な動物愛護令である(生類憐み令)の開始は曖昧で、いつから開始されたかわからないが、1687年(貞享4年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。

1683年(天和3年)に綱吉は嫡子徳松が5歳で病死した。綱吉は息子の亡くなったことで、人の死や血の穢れを意識し、服忌令を制定を進めており。生類憐みの令もその延長線上だったのである。

生類憐みの令のよくある通説は、跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母桂昌院が帰依していた僧隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていた。ただし、隆光を発端と見る説は近年後退しつつある。この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものであるが、隆光が筑波山知足院の住侍として江戸に滞在するようになった1686年(貞享3年)以前から、生類憐れみ政策は開始されている。

生類憐みの令の年表

1683年(天和2年)2月29日:「辻番ハ道路ノ病人、酒酔イヲ介抱スヘシ」。(辻番は道路に倒れている病人や酒に酔った人を介抱しなさい)

綱吉、会津藩に対し、「生類を憐れむ」ためとして、鷹の献上を禁じる。1684年(貞享元年

8月28日:生類憐みの令に反対の立場であった大老堀田正俊が、若年寄稲葉正休に刺殺された。

1685年(貞享2年) 2月12日:高札立つ。「近ごろ江戸近辺でみだりに鉄砲を撃つ者がいる。捕まえた者、訴えた者に賞金を出す」。4月14日に駿河国上柚野村の佐野藤兵衛、武州羽生領下之村の伝兵衛の案内で鶴2匹を撃つ。2人とも品川獄門(鈴ヶ森刑場にて晒し首)。

7月14日:将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいて構わない

7月14日:御成り道に犬が出ないよう門前の犬数十匹を捕まえ、俵に詰めて隅田川に沈めた浅草観音の手代、遠島になる。「僧侶の法にそむいた」と浅草観音別当知楽院忠運と代官閉門。8月6日忠運は追放となる。

11月7日:江戸城において、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じる。

12月16日:旗本清水権之助組の三郎左衛門、新吉原で網を張り鴨を捕る。翌年1月18日牢死。死骸取り捨て。

1686年(貞享3年)

月3日:「馬の尾を巻くのは雨天の時、縄二重までならよい。馬喰の馬は拵え馬と紛らわしく一切禁止。

2月7日:「馬の尾先を焼くのは養生(治療)のためならよい。尾ぐきを切り、焼きごてをあてるのは禁止」[29]

6月6日:御小姓の伊東基祐服忌令を守らず、頬にとまった蚊を手で打ち殺し供奉したため、閉門処分。

7月19日:大八車でイヌや猫を轢かないように注意することと、最前からの通達のように、野犬に餌をやらないことと、生類のやり取りをしない風潮があるとして、「生類あわれみ」の志をもって対応するように申し付けた法令。「生類あわれみ」の語が登場する最初の法令

9月1日:伊予西条藩主松平頼純の使用人の加左衛門、酒を飲み前後不覚、南青山で米を積んだ馬の尻を小刀で刺す。牢舎、追放する。

9月5日:芝車町(港区高輪)長蔵の大八車が船町(日本橋室町)で犬をひき殺す。長蔵は牢舎入り、8日後に赦免される。

12月16日永井直敬の家来召使、長谷川町(日本橋堀留町)で犬を突き殺す。酒狂い、揚屋(武士などが入る牢屋)入り、同24日赦免。

1687年(貞享4年)

1月1日:病馬を捨てることを禁止

1月28日:諸藩に初めて生類憐みの令が発令される。「生類の病気が重ければ死なないうちに捨てるように聞いている。不届きである。ひそかに捨てる者がいれば訴え出なさい。褒美を下される」。

2月4日:江戸城台所頭の天野五郎太夫、八丈島に遠島。本丸の井戸に蓋を忘れ、猫が2匹落ちて死んだ。さらにそれを知らずに井戸水を使って料理を行ったため。

2月11日:「町内の犬の毛色などを記しておきなさい。いなくなったら犬は探さなくてよい」。

2月16日:「鷹場での殺生を禁じる。ひそかに鷹を使う者がいれば訴え出なさい」。

2月21日:「老中に心得違いがあった。養い置いた犬が見えなくなったら尋ねて探しなさい。犬がいなくなった時、よそから別の犬を連れてきて数合わせをしてはならない」。

2月21日:「(将軍、老臣への)鳥類献上は年に1度、少量。生きた魚、貝類は禁止」と諸大名に命じる。

2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)

2月28日:「御触れが出て急に鳥を絞め殺すのはいけない。生きた魚、生いけすの魚、貝類のほか鯉、鮒、海老など生きたものの商売は禁止」貝採り漁民困窮の訴えでひな祭りのハマグリ解禁。

3月26日:「鳥類(食用)飼育禁止。鶏、アヒル、唐鳥などは餌がないと飢えるので飼ってもよい」

3月28日:新銀町(神田司町)の奥平、板橋で犬を切り捕まる。酒酔い記録なし。4月6日江戸追放。

4月:捨て子を養育すること、人が傷つけた鳥類・畜類は届け出るように通達。

4月7日:駿河国田中藩主土屋政直の中間、数寄屋町(中央区銀座)で犬7、8匹に吠えかけられ衣類にかみつかれ、脇差を抜き払い、犬を傷つける。揚屋入り。不意のことにつき、6月4日赦免。

4月9日:病馬を捨てた武蔵国神奈川領寺尾村(現横浜市)の3人が三宅島へ遠流に処される。同領代場村の7人も流罪。(武蔵国村民10人)。

4月10日:小石川御殿番・保泉市右衛門の奴僕角右衛門、喧嘩していた犬を脇差で切り逃走。のち出頭した。八丈島に流罪となる。主人の保泉は俸禄を召上げられる。

4月11日:「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要」「鳥類、畜類を人が傷つけたら届けなさい。とも食い、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい」「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない」「飼い置いた犬が死んでも別条なければ届けなくてよい」「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である」。

同日:師匠の弔い帰りの権兵衛、神田鍋町(千代田区鍛治町)で犬3匹が師匠女房の駕籠に吠えかかり、脇差を抜き追い払い、犬の耳を傷つける。「不届き」と揚屋入り後、6月24日江戸十里四方追放処分になる。

4月21日:「犬猫が死んだら捨ててはいけない。埋めておきなさい」。

4月23日:「町中で生きたイモリ、黒焼き商売を禁じる」。

6月10日:大八車で味噌を運ぶ召使2人、宇田川町(港区浜松町)でアヒルをひき殺す。牢舎後同24日赦免

6月23日:宇田川町(港区)の文四郎、駄馬馬を脇差で切る。馬と百姓けが。酒で記憶なし。

7月16日赦免6月26日:多々越甚大夫(旗本秋田季品の家臣)が、全将軍徳川家綱の命日である6月8日に、吹き矢で燕を撃ち、5歳児の病気養生に食わせたため死罪。これを見ていた同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。

7月2日:「(江戸の町)どこでも生類売買禁止。虫を飼うこともいけない」。同日、京橋の虫売りが牢舎処分。桧物町(中央区日本橋)の三助、井戸の樋を転んで落とし、これが犬に当たり死んだ。牢舎後、同6日赦免。

7月3日:馬を引いていた九兵衛、下舟町(日本橋小舟町)で鶏を踏み殺す。牢舎後、8月15日赦免。

9月29日:倒れた馬を放って帰り、死なせた武蔵国下仙川村の次郎兵衛が牢舎。12月29日八丈島流罪

12月9日:「鹿猪の害があれば玉を込めずに鉄砲でおどしなさい」。

12月12日:「最近も捨て馬する者がいる。この度も流罪を仰せ付けた。今後も重科とする」。

 1688年(元禄元年)

1月29日:「屋号、人名などに鶴の字、鶴の紋の使用禁止する」。

5月29日:1月20日に鶏2羽を売った飴売り伊右衛門、品川で獄門。仲介した増上寺門前町(港区)与四兵衛は4月8日に牢死。鳥を買った新堀同朋町与兵衛は5月10日に牢死。岩井町(千代田区岩本町)の清兵衛、品川などで鳥を獲ったと白状し、本所三つ目横堀で獄門。芝金杉(港区金杉橋)の作右衛門、本所三つ目横堀で獄門。1月26日に同所八兵衛ら茶船を借り、もち縄を使い押上村で白雁4羽を捕らえる。八兵衛は牢中で患い病死。6月19日囚人待遇改善。

6月19日:牢死が多く、囚獄(小伝馬町)の待遇改善を命じる。冬に風が吹き抜けないよう所々に格子を設け、行水は月に5度ずつ、宿無しには雑紙をやり、秋には布子を1枚増やして2枚与えるようにした。

8月27日:留守居番与力の山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを養わなかったため追放。

10月3日:武蔵国新羽村(横浜市港北区)の西方寺、コウノトリが巣を掛けた木を切り閉門処分。村人も罪を蒙る。

10月9日:道中奉行御触れ「病牛馬捨ててはいけない。病気の旅人には薬をやり面倒を見なさい」。

12月25日:武蔵国上忍田村で鳥を捕まえていた百姓の安左衛門、犬が吠えかかるので、犬に鎌を投げつけた。犬は左前足に少々けが。名主より訴えがあり、牢舎。翌年2月27日に神津島へ流罪。

8月17日:大酒飲み禁止令

1689年(元禄2年)

1月16日:芝金杉(港区)の山伏法光院、犬2匹を切り怪我をさせた罪で。酒で記憶なし。牢舎後、2月6日追放

2月27日:病馬を捨てた武士14人、農民25人、神津島に流罪。

3月6日:湯島広小路辻番3人、水路内に犬の死体があり、番を申し付けられたが、近くを立ち回るうちに上流の堰板が外されて増水、犬の死体は押し流されて見えなくなった。3人は牢舎後、江戸五里四方追放処分

5月11日:生類憐みの令以前のことが罪に問われた。1686年(貞享3年)9月から1687年(貞享4年)2月まで持弓頭(城警備担当)の中根正和に捕えられ、牢舎入り。中根の交代]で身柄が後任に引き渡され、以下全員死罪となる。清兵衛・五郎左衛門・鮒屋市郎兵衛・善兵衛・勘兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪。八兵衛、お堀の鯉鮒買い取り、牢屋死罪。安左衛門・仁左衛門・久兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪後、獄門。

6月28日:「猪鹿狼は害になる時のみ銃で撃ってよい。死骸はそこに埋め、売ること食べることを禁止する」。

10月4日:評定所目安読の坂井伯隆、閉門。評定所で犬が喧嘩をしているのを止めず、犬が死んだため。

10月10日:病気の犬にも餌を与えるよう通達する。

1690年(元禄3年)

4月18日:常陸国作屋村(つくば市)の酒屋平兵衛、馬を打ち殺し江戸十里四在所追放

10月25日:捨て子禁止令。「捨て子はいよいよ御禁制である。養育できなければ申し出なさい」。

11月3日:7歳までの子供の届け出制。「子供の出生、死亡、奉公、養子、引越、名主方の帳面につけ置くこと」。

1691年(元禄4年)

8月11日:「公方様に糞を落しカラス八丈島に島流し」。

8月12日:上餌差町(文京区小石川)の忠兵衛、揚屋入り約3年半ののち隠岐島へ流罪。元禄元年2月放し雀(寺社参りの人が放生する雀)売りの権七に雀50羽を売る。

8月13日:小石川源覚寺前(文京区)、放し雀売りの権七、揚屋入り約3年半ののち薩摩へ流罪。甲州秋元摂津守領の百姓権左衛門、薩摩へ流罪。鉄砲で鳥打ちした。摂津守家来が召し連れ7年前に揚屋入り。牢内で患い、いったん外に出たが、回復し再度揚屋入り後、流罪。

10月21日:蛇を使って客を集め、薬を売った南小田原(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる、市右衛門は11月16日牢死、死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。

10月24日:蛇使いの興行と、犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止

11月22日:旗本鳥居久大夫の召使三助ら3人死罪。11月11日門前にいた鷺を殺して食べる。

1692年(元禄5年)

1月:喜多見に病犬を収容する犬小屋を建設する。病馬も収容

1693年(元禄6年)

4月30日:「遠国で猪鹿狼の害がある時はまず空砲、害がやまないなら鉄砲で打ち鎮め、下々が難儀しないよう後日大目付に書付を出せばよい。生類憐みは人々に仁心が備わるようにとの思し召しである」。

8月9日:高田馬場)で埋めた猪を掘り出し隠した非人3人、死罪される。

8月、趣味としての釣りを禁止する禁令が通達される

1694年(元禄7年)

3月11日:「馬のもの言い」事件で浪人の筑紫団右衛門、斬罪。流罪を言い渡された八百屋の惣右衛門牢死。とばっちりで落語家の鹿野武左衛門、伊豆大島に流罪。この事件に関して口書(調書)を取られた江戸町民35万3588人。

7月4日:霊岸島(中央区)の七左衛門、鶏のひなを食った家主の猫を殺す。牢舎後、同12日江戸十里四方追放処分。

8月2日:歩行頭佐野内蔵丞の知行所の上飯田村(横浜市泉区)で猪狩りが行われ、内蔵丞は職を奪われ、逼塞処分。

8月6日:上飯田村の百姓に猪狩りを命じた内蔵丞家来の酒井井伝左衛門、鈴ヶ森刑場で獄門。猪肉を切り取った百姓5人、隠岐島へ流罪。正直に話さなかった百姓4人追放。訴状を差し出した上飯田村百姓の忠兵衛、江戸市中引き回し品川で磔。息子は遠島。

11月16日:江戸市中の金魚(赤色)・銀魚(白色)を藤沢清浄光寺の放生池に放つことを許可する。ただし放つときにはその数を目付に報告するよう求めている

1695年(元禄8年)

2月10日:このころ千住で磔にされた犬2匹見つかる。「犬公方の威を借りて諸民を悩ます」と捨文。8月9日旗本次男で大番の河村甚右衛門が「無作法の体をなし、その上捨文いたした」罪で斬罪に処せられた。

6月1日:四谷、大久保の犬小屋落成。同3日「町中の人に荒き犬」は四谷へ送るよう町触れ。「町中の牝犬残らずこの小屋(四谷)に入れ置かれる」と『加賀藩史料』に記されている。

10月16日:大阪定番で三河国大給藩主松平乗成組の与力三浦伝之丞と同心8人、同心の子1人の計10人,鳥銃で殺生し鳥を売っていたとして切腹。ほかに浪人1人が死罪獄門、その子は遠島。同組の同心5人遠島、町人2人追放する。

10月25日:本郷菊坂の旗本屋敷辻番の八兵衛、溝に捨てられた子犬を別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた」と弁明したが、「養わず不届き」と牢舎。11月25日、浅草で斬罪獄門。辻番4人追放する。

11月14日:中野犬小屋へ江戸町内の犬の送り込みが始まる。「不日に(すぐに)十万頭に及ぶ」(『徳川実紀』、「おおよそ犬拾金万疋なり」『年録』『柳営日次記』)。

1696年(元禄9年)

犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。

2月7日:新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門の手代2人の名を書いて捨て捕まる。半兵衛の、孫右衛門への恨みによる犯行であった。半兵衛は26日に浅草にて磔刑。

5月18日:犬小屋の犬を養うため御犬上げ金を徴収する、と江戸の町々に御触れがあった。7月4日に、御犬上げ金、小間一間(20坪)につき年に金3分を課すと通告。

5月19日:小石川の水戸家上屋敷前で矢の刺った鴨の死体発見。8月21日小普請奉行の飯田次郎衛門、虚説を申し大島へ流罪、2人追放。犯人不明。

7月6日:本所相生町で犬が殺された。大工善次郎の弟子市兵衛が捕えられ、磔となった。通報した娘しもに「ご褒美50両」と町触れが出る。西ノ久保(港区神谷町付近)で切り傷のある犬が見つかった。8月9日、村山長古の召使が掴まり、遠島となる。村山に遠慮仰せつけられる。

    (生類憐みの令のでの中野犬小屋のモニュメント)

生類憐みの令の具体的な年表で示しましたけど。よく言う犬を大事にしろ、犬のみ保護する法令だと思われがちだけど、犬だけでなくすべての動物も対象になっている。以前アフラック生命のCMで、この生類憐みの令をモチーフしたⅭⅯが放送されました。そのⅭⅯの中で極端に犬を大事にしすぎ、小姓の食べ物さえ犬に与える綱吉が描かれましたけど、事実とは違います。

 生類憐みの令の廃止

1709年(宝永6年)正月、綱吉は死に臨んで世嗣の徳川家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった。

徳川家宣が生類憐みの令を撤回したことを農民は喜んでいた。ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もある。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き、8代将軍徳川吉宗によって廃止されている。鷹狩が復活したのも、吉宗の代になってからである。

 生類憐れみの令は庶民の生活に大きな影響を与えたため、「天下の悪法」と評価されることが多く、綱吉への評価を下げる原因となった。現在でも、極端な理想主義の法律・法案などに対する批判として、「現代の生類憐れみの令」のように揶揄の対象にもなる。

 綱吉死後の政権に関与した新井白石は、『折たく柴退の記』などで生類憐れみ政策を批判している。また、戸田茂睡『御当代記』において批判を行っている。これらの評価は生類憐れみの令に対する悪評を高めた。一方で白石は家宣を顕彰する目的で、茂睡は政権批判の立場から、事実を誇張しているという指摘も行われている。

   生類憐みの令の効用

 生類憐みの令は「天下の悪法」と言われてるけど。動物だけでなく、捨て子や病人も大事にしろ、浮浪者狩りや辻斬りをやめるように盛り込まれいた。綱吉が生類憐みの令をだしたのは、前向きは犬や動物を大事にする法令だけど、綱吉の本当の狙いは、人を人と思わず斬り殺す戦国以来の殺伐とした風潮変えてたいと思ったからで、人々の意識を変えたいからであった。

 生類憐みの令は、綱吉治世は悪法と呼ばれているが、しかし、生類憐みの令の本当の効用は100年立ってから、その効果がでます。綱吉登場以前と100年後の社会は大きく違います。それは武士は平気で人を斬ることがなくなりました。例えば池波正太郎『鬼平犯科帳』で鬼平が最近の侍は剣術が下手で、どうも最近の侍たちは剣をまとも使えず、腕が鈍って困ると言っており、また、ある武士が剣術を習いたくて道場に通いたいと上司に許可を貰いにいったが、その上司が剣術をやって腕を怪我したら、大事なそろばんができない。君は事務方何でと反対された。明らかに武士達の意識が江戸時代初期のころと違っています。これは生類憐みの令の効用がでています。生類憐みの令100年のスパンで見ないといけない法令です。

 幕末に新選組が活躍しますが、このことは江戸時代初期ではありえない光景です。なぜなら血気さかんな三河以来の旗本いるのに、民間の武士の集まりの新選組に頼んだら、俺たち旗本を愚弄する気かと激怒します。それだけ幕末期の幕府の旗本が腑抜けになって役に立たないので、だから新選組などに治安維持を頼んでいるのです。初期の頃の旗本と幕末の旗本が完全に違うのは、それは武士達の意識が人を斬ってはいけないとの改革をされているからです。それは5代将軍綱吉が出した生類憐み憐みの令のおかげです。生類憐みの令が幕末期の旗本の人格を変えました。長い年月の中に自然と生類憐みの令がしみ込んでいます。

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