土佐に散った源頼朝の弟、その名は源希義

飛鳥・奈良・平安時代

                 はじめに

   今から20年前、夏の数日間、高知県介良に滞在していた時期があります。朝、近所を散歩していたら、偶然平安時代の人物で源義朝の五男源希義(みなもとまれよし)の墓を見つけました。その人物は希義は頼朝の実弟で、なぜ頼朝の弟の墓が関東地方ではなく、関東からだいぶ離れた四国にあるんでしょうか?次から、その謎を紐解いてみましょう?

               源希義誕生との土佐配流

 源希義は1152年(仁平2年)源氏の源義朝と熱田神宮の大宮司の藤原季範の女(むすめ)由良御前との間に生まれました。実兄は鎌倉幕府初代将軍源頼朝です。

  1159年(平治元年)源義朝平清盛の間で争い(平治の乱)が起こり、義朝は平氏に敗れ東国に落ち延びました。途中で兄の頼朝は途中ではぐれました。父義朝は尾張で家人の長田忠致父子に裏切れ殺害されました。希義は乳母に連れられ東国を目指しましたが、途中駿河国香貫で母方の叔父藤原範忠に潜伏中のとこを捕らえられ、京の朝廷に差し出された。翌1160年(永暦元年)3月11日に、清盛は平治の乱後の処理で、希義の土佐国配流が決まった。同日の兄頼朝も伊豆の蛭ヶ小島に配流が決まった。兄弟は日本列島で東西に分かれて、これが兄弟の根性の別れになってしまった。

            頼朝の挙兵と希義の死

 時が流れて、1180年8月に伊豆で頼朝が挙兵すると、清盛は土佐にいる弟希義が、頼朝に加勢することを恐れてた清盛は土佐にいる平重盛の家人の蓮池家綱平田俊遠希義追討を命じた。

   1182年(寿永2年)土佐冠者と呼ばれいた希義は配流先の介良荘にいたが、平家方が自分の追討令出されたことを知ると、かねてから、約束していた挙兵の準備を夜須行宗と相談するために、介良荘を抜け出し夜須行宗の本拠地夜須荘に向かった。希義の脱走を知ると、蓮池家綱平田俊遠は軍勢を率いて希義一行を追った。希義は夜須荘まで、もう少しの吾川郡年越山で蓮池ら平家方に追いつかれ、合戦になったが、希義は力尽きて討死。行宗希義と平家方の合戦に救援軍を引き連れて向かったが、間に合わなかった。さらに家綱夜須行宗を討とうとしたが、行宗が間一髪海上に逃れて船で紀伊に落ち延びた。              

             (源希義が討死した場所)

            希義死後の情勢

  ●紀伊に落ち延びた夜須行宗は鎌倉に赴き、頼朝のもとに馳せ参じる。

  ●1182年(寿永元年)11月、頼朝希義を討った平田俊遠蓮池家綱を討伐するため源有綱を大将に行宗の案内で土佐国に遠征する。

  ●有綱行宗軍勢は土佐に上陸すると、幡多郡の平田城に侵攻して、平田俊遠を討ち、続いて蓮池家綱を攻めて家綱討ち取る。土佐の平家方を殲滅する。 

                     (平田城で討たれた平田俊遠の墓
              (平家方平田俊遠が籠った平田城址)

 ●1185年3月、壇ノ浦の戦いで夜須行宗が参戦、平家方の岩国兼秀兼季兄弟を捕らえるが、戦後に軍目付の梶原景時行宗手柄のではないと頼朝に訴えるが、他の御家人たちがの証言で行宗の手柄であると認められる。訴えた景時は、罰として鎌倉の道路工事を命じられる。

 ●1185年(文治元年)3月27日、希義の師僧であった土佐国の琳猷上人(りんゆうしょうにん)は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の死体を引き取って供養し、上人は希義の鬢髪を首にかけて鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。頼朝は「上人がおいでになった事は、亡き弟希義の魂が再び訪ねてきた事のようです」と賛辞を尽くしたと伝えられる。

 ●1191年(建久元年)夜須行宗頼朝から正式に夜須荘安堵される

  伊豆山権現別当蜜厳院領が土佐介良荘に荘園を持っていて、五堂灯油料船を走湯山が五十艘所持してました。この船が西にも交易をしてること(網野善彦『日本史の挑戦『関東学』の創造を目指して』)頼朝は流人時代に伊豆山権現に帰依していました。このことを知っていて、もしかしたら、伊豆山神社を介して介良荘の弟希義に物資を送ったかもしれません

 頼朝は実弟の死を憐れんで介良荘に希義の墓を西養寺に作って菩提を葬った。寺名は希義の法名「西養寺殿円照大禅定門」に由来する。

  源希義の墓がある西養寺は明治時代の廃仏毇釈(はいぶつきしゃく)で本堂が解体され廃寺になりました。希義の墓も無縁塔です。1995年鎌倉にある頼朝の墓の土と石と希義の墓の土と石を交換する催しを行いました。兄弟の再会を果たしました。現在、希義の墓の上に希義を祀る希義神社があります

                 (西養寺跡にある源希義の墓)(高知県高知市介良)

参考文献

●『現代語訳吾妻鑑』第1巻、吉川弘文館、2007年。(五味文彦・本郷和人)

● 『日本歴史大系 高知県の地名』(平凡社)高知市西養寺跡項

●『日本史の挑戦『関東学』の創造を目指して』(網野義彦)

       

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