長宗我部元親は、なぜ甥の吉良親実を殺害したか?その死が「七人みさき」を誕生させた。

鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代

             はじめに

 みなさまは妖怪「七人みさき」を知っていますか?アニメや漫画の「ゲゲゲの鬼太郎」や「地獄先生ぬ~べ」にも登場しますので、知ってる人もいますね。

  「七人みさき」について説明します。『災害や事故で、特に海で溺死した人間の死霊。その名の通り常に7人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる。「七人みさき」に遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう。1人を取り殺すと「七人みさき」」の内の霊の1人が成仏し、替わって取り殺された者が「七人みさき」の内の1人となる。そのために「七人みさき」の人数は常に7人組で、増減することはないという。」主に中国・四国地方に伝わっています。

  これから話します。「七人みさき」の話は戦国時代の土佐で現れました。それは、長宗我部元親が甥の吉良親実一族を虐殺したことで発生しました。なぜ吉良親実は殺されたのか?事件を詳しく話すために、土佐吉良氏の歴史に触れなければならなりません。

     土佐吉良氏の発展

  土佐吉良氏は、源頼朝の弟源希義の流れを組む名門で、『吉良物語』によると、希義が通っていた平田経遠の娘が、希義の死後程なく男子を生んだとされる。この男子は建久5年(1194年)、亡父の旧友であった夜須行宗に伴われて鎌倉幕府を開いた伯父の頼朝に拝謁した。頼朝はすぐには信じなかったものの最終的には認め、土佐国吾川郡のうち数千貫と三河国吉良荘(現愛知県西尾市)のうち馬の飼場三百余貫を下賜した。男子はこれ以後「吉良八郎希望」を名乗って土佐吉良氏の始祖一説には希義の長男隆盛の系統ともいわれる。 希望の後裔は、鎌倉時代末期から現在の高知市春野町弘岡を中心とした在地領主となった。鎌倉時代は北条氏の被官的存在だったが、希望より6代後吉良希世・希秀兄弟後醍醐天皇に仕え、元弘の乱において、足利高氏に従って六波羅探題の攻略に功があった。以後しばらく、四国における南朝方の雄として伊予の河野氏らと行動をともにする。

 しかし、吉良希雄(希秀の孫)が土佐守護細川氏の傘下に走って以降は北朝方となり、南朝方の篭る大高坂城(後の高知城)の攻撃に参加するなどしている。希雄の後は、嫡男の希定、その弟宣実が継いでいったとされるが、この時から通字が「」から「」に変更されており、兄弟に共通の文字もないことから、宣実については血統の変化も指摘されている。また、この頃から土佐守護職を世襲するようになった細川氏に従っていたとみられ、実際に応仁・文明期には、吉良宣通が東軍細川勝元の将として上洛、応仁の乱おいてそれなりの軍功を立てたといわれる。

              戦国時代の吉良氏

  室町時代の土佐国は細川氏による守護領国体制の下にあった。吉良氏の拠点であった吾川郡南部は守護代格の有力国人大平氏の支配下にあり、同じ地域の森山氏・木塚氏らと対抗したとされる。その後1507年(永正4年)京で本家筋の細川政元が暗殺された(永正の錯乱)それをきっかけに、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京に上り、大平氏の影響も小さくなった。これらにより土佐もまた、守護による領国支配が終わって戦国時代を迎えることとなる。この時期の土佐国は、盟主的存在である土佐一条氏の下に、土佐七雄(土佐七守護とも)と呼ばれる吉良氏を含めた有力7国人が割拠した。吉良宣忠の時、本山氏安芸氏大平氏、山田氏などの諸族とともに岡豊城主長宗我部兼序を攻め滅ぼし、勢力を拡大する。細川氏が力を失った。後の土佐においては土佐一条氏を奉じ、吉良宣経の時に一条氏から伊予守に任ぜられ最盛期を迎えた。宣経は天文年間に周防国から宋学の第一人者の南村梅軒を招きいれ、土佐南学の基礎を築いた。しかし、梅軒の講説を理解しえたのは、宣経と従弟の宣義の二人だけで、宣経の嫡男・宣直は居眠りしていたという。

  吉良宣経が亡くなると、吉良宣直が家督を継承するが、前述の通り梅軒の講説に居眠りするような人物で、当主となった後も治政を怠っていた。その翌年には梅軒吉良氏の元を去っていき、吉良宣義はこれを諌めたが禁固刑に処され、永禄初期に断食自殺してしまった。この頃は、上記土佐七雄の群雄割拠が激しくなり、1517年(永正14年)の恵良沼の戦いで高岡郡の有力者津野元実を討ち破って土佐西部に進出してきた一条氏と、土佐中央部に進出し朝倉城を築いた本山氏の両氏にいつ挟撃されてもおかしくない状況であった。この状況を打開するため駿河守宣直は一条氏と結ぶことを決意するが、これによって本山氏は吉良氏攻撃を決行した。本山氏側は軍を二手に分け、天文9年(1540年)、吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけた隙を狙って攻撃、本山茂辰より城主が不在であった吉良峰城が落城。宣直も仁淀川に来た軍勢と応戦するが打ち取られてしまい、土佐吉良氏は滅亡する。

         長宗我部元親の吉良氏再興活躍

  長宗我部氏は兼序の代で、一旦滅亡しているが、兼序の子長宗我部国親(くにちか)の代で復活を遂げる。その子、長宗我部元親の代になり、宿敵本山氏と抗争する。元親が朝倉城の戦いで、本山茂辰を破った後、1563年(永禄6年)春に滅亡した土佐吉良氏に元親の弟親貞(ちかさだ)を吉良宣直の妻と再婚させ、吉良氏を再興する。長宗我部氏の西部戦線の要とした。

   吉良親貞は兄の元親を補佐して、土佐一条氏との抗争で活躍。1575年(天正5年)渡川で豊後に追放された一条兼定長宗我部元親の軍が激突した。兼定は破れて豊後に落ちていき、ここに元親の土佐統一がなった。この数日後、元親の四国統一を見ることなく、翌1576年(天正6年)7月15日に弟の吉良親貞が病没した。渡川は現在の四万十川です。親貞の跡を継いだの吉良親実です。

       吉良親実の活躍と秀吉の四国征伐

  天正13年春、元親は伊予の湯月城主河野通直を降して、念願の四国平定する。元親の四国平定するまで、途中で織田信長の四国征伐が計画されたが、本能寺の変で危機を脱出。また小牧長久手の戦いが開始されると、徳川家康・織田信雄・雑賀・根来らと同盟して羽柴秀吉を包囲網の一員になったが、、約10年で成し遂げた。その間、吉良親実も従軍し活躍する。

  天正13年6月~7月に羽柴秀吉による四国征伐が開始されたが、秀吉自身が病にひれ伏してたので、自分の名代として弟羽柴秀長が総大将に阿波から、讃岐には宇喜多秀家・黒田孝高の軍勢が、伊予には毛利輝元小早川隆景の軍勢が侵攻。毛利軍の小早川隆景が伊予の湯月城を落とし、秀長率いる阿波で長宗我部方の重要な一宮城を落とすと、さすがの元親は戦意を喪失して、秀吉に降伏しました。

       戸次川での長宗我部信親の戦死と跡目問題

  秀吉の軍門に下った元親は、滅亡免れて土佐一国を安堵された。秀吉には元親配下の一領具足の扱いできず、元親に任せる形になった。それから、秀吉は豊後の戦国大名の大友宗麟の要請で島津氏の討伐るため、まず先鋒軍を出発させた。その先鋒軍は仙石秀久を大将に元親含む四国勢が任された。元親はかっての敵であった十河存保(そごうまさやす)と共同することになった。

 豊後の戸次川付近で島津軍と豊臣先鋒軍との戦いになり、元親は戦場で嫡男長宗我部信親とはぐれた。その信親は老臣の桑名太郎左衛門ともに島津氏の戦法釣りの伏しに引っ掛かり、討ち取られた。元親は領国に戻ったが、信親の死を受け入れらず自暴自棄になった。

 信親の戦死で長宗我部家の跡目問題で、兼てから信親が死んだときは、次男の香川親和が相続す手筈であった。このことは関白豊臣秀吉のお墨付きであった。しかし、元親は四男長宗我部盛親を家督を継がせようとした。そんな中、香川親和は失意の中で病死する。(1587年(天正15年))   

              

          (長宗我部信親の墓)

          吉良親実一族粛清と「七人みさき」

  1588年10月、盛親の家督を継承した。この決定に不服の吉良親実元親の従弟の比江山親興盛親の家督継承は無効と元親を説得するが、頑固として聞かず。仕舞には久武親直が吉良氏が長宗我部家に謀反する兆しがあると密告した。元親は親実一族の粛清を慣行。まず吉良親実を自刃させた。続いて従弟の比江山親興を自刃をさせた。元親は「吉良親実比江山親興の縁者が野心起こさぬとも限らないから、縁者はすべて粛清しろ」と命令した。それから、親実の兄弟僧の如渕(じょえん)、土佐神社の神職永吉飛騨・親実の家臣勝賀次郎兵衛実信(しょうがじろべえさだのぶ)親興の妻子らが次々と長宗我部勢によって討たれました。これにより完全に土佐吉良氏は断絶しました。元親の息子で残った三男の津野親忠元親によって香美郡岩屋に蟄居させられた。

         (吉良親実一族を祀った吉良神社)

 悲劇的な吉良親実比江山親興如渕永吉飛騨勝賀次郎兵衛実信・親興の妻子ら七人の怨霊が夜な夜な墓場から現れて、城下に出没しました。七人の怨霊は久武家にも災いしました。これが「七人みさきになりました。元親は、これを聞きつけて、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分)(現高知県高知市は春野町西分増井)の墓に木塚明神を祀った。これが現存する吉良神社である。

       

   (吉良神社にある七人みさきの慰霊碑

  

        (勝賀次郎兵衛実信の墓)

参考文献

●『吉良物語』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

●『長宗我部元親』(山本大)(吉川弘文館)

●『長宗我部元親』ー土佐の風雲児 四国制覇の道ー(吉田龍司著)(新紀元社)

●『長宗我部元親のすべて』(山本大編)(新人物往来社))

●『高知県の歴史』(山本大)(山川出版)

●『県史 高知県の歴史』(萩慎一郎)(山川出版)

●『高知県歴史散歩』(山川出版)

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