はじめに
先日。私は埼玉県新座市の平林寺を訪れた時。豊臣政権の五奉行の一人増田長盛の墓があったので、お参りしてきました。よく増田長盛の行動が豊臣氏滅亡に一躍関係していると記事とか見かけるので、自分でも書いてみたいと思います。
増田長盛の生誕と秀吉の家臣時代
増田長盛の誕生地だという場所は2つの説があり、まず第一は尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)そして、第二の候補は近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)(竹生島の対岸で早崎内湖の東側にあり、現在は真福寺(山号は増田山)になっています。)
1573年(天正元年)長盛が28歳の時、当時、織田信長の家臣であった長浜城主の羽柴秀吉に見出されて、200石で仕えました。以後長盛は秀吉の家臣として数々の合戦に従軍。1577年からの中国征伐に従軍し、1580年の鳥取城攻めでは、「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。
その間に増田長盛は結婚しているが、妻が不明で、一説には森可成の娘と言われている。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、備中高松城からの主君羽柴秀吉の中国大返しに従い、山崎で明智光秀を破ると、長盛は奏者に任じられ、越後の戦国大名上杉景勝との外交交渉を担当した。(吉田兼見の日記『兼見卿記』に記されている。)
天正12年(1584年)3月、徳川家康との小牧長久手の戦いに従軍し、敵の兜を二つ取った戦功で2万石加増。翌1585年(天正13年)5月、紀州征伐の戦功で従五位下・右衛門尉に叙任されている。四国征伐で長宗我部元親が秀吉に降伏して豊臣政権下の一大名となると、論拠不明ながら長盛が長宗我部氏との取次になり、以後、長盛と元親は親交を深める


小田原征伐及び豊臣政権の活躍
増田長盛は、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に従軍しました。その際中、長盛は安房の里見義康の取次担当になり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行った。7月に後北条氏が滅亡すると、長盛は下野・常陸・安房の大名達に対するの豊臣政権への取次役になった。
同1590年(天正18年)秀吉は増田長盛に命じて、京都で木造の三条大橋と五条大橋の橋を石造りに架け替えさせました。秀吉から近江水口城を与えられ。翌1591年(天正19年)閏正月に長束正家共に近江国の検地をする。
1592年(文禄2年)から始まる文禄の役では、長盛は、石田三成、大谷吉継と共に朝鮮半島に渡り漢城(現ソウル市)に駐屯。奉行として占領地の統治と兵站を携わる一方で、戦闘にも参加。特に碧蹄館城の戦いと幸州山城の戦いに従軍した。


郡山城主と豊臣政権五奉行
1595年(文禄4年)豊臣秀長の養子豊臣秀保が病死すると、秀吉は残った大和郡山城を長盛に与えた。長盛は所領20万石と常陸国に三千加増。大和・和泉・紀伊の代官を兼職。

1595年(文禄4年)豊臣秀次事件が起きると、長盛は長束正家と共に秀吉に反抗する秀次の老臣の糾弾を行った。翌1596年(文禄5年)土佐浦戸沖にスペイン船サン・フェリぺ号が漂着すると、現地の大名長宗我部元親の要請で、元親と親交のある増田長盛が秀吉の命で浦戸に赴き、サン・フェリぺ号の積荷を接収した。
豊臣政権五奉行体制と秀吉の死
秀吉は五奉行制度を設立。五奉行は石田三成・浅野長政・前田玄以・長束正家・長盛の5人を選択。また秀吉は既に齢60を超えており、幼少の豊臣秀頼を支える体制の構築が急務となっていた。五奉行のみでは政権維持に不安があると考えた秀吉は、文禄4年(1595年)8月、徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家の5名を政治上の最高顧問として任命。いわゆる五大老で、五奉行と共に政務を合議制で運営する体制。 1597年(慶長3年)小早川隆景が死去。代わりに上杉景勝が加わる。
五大老の政務は、1594年(文禄4年)8月2日には、五大老の連署による掟が発布され、秀吉の許可がないと、大名同士の婚姻できないこと、諸大名同士が私的に誓約を結ぶこと禁止することに決めた。さらに翌8月3日に追加規定が出され、訴訟や直訴に関しては、五大老・五奉行の10名が協議して処理にあたること、特に重要な訴えについては五大老が判断の上、秀吉へ報告する仕組みが整備された
1598年(慶長3年)太閤秀吉が伏見城で死去。秀吉の後継は豊臣秀頼に決まり、五大老の徳川家康が後見役になって大坂城で政務する。
秀吉の死後に、徳川家康が秀吉決めた法令を破ると、五奉行筆頭の石田三成が反徳川家康の立場を表明し、打倒家康の謀議に他の五奉行と共に長盛も参加しました。1600年(慶長5年)長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。その一方で石田三成と大谷吉継の謀議があった7月12日の同日、家康のもとに、ただちに謀議の趣旨を密告したのである。家康配下の永井長勝に宛てた密書には、大谷吉継が美濃国の垂井で病と称し、前後二日ほど滞在し、石田三成と謀議に及んだことを暗に知らせている。今後とも徳川家康に折々に知らせると行動しているため、表では増田長盛は石田三成に従ってけど。裏では平気で徳川家康と通じていました。長盛のこの行動が、後で大きなしっぺ返しをくらいます。
関ヶ原の戦いと増田長盛
石田三成の西軍による徳川方の伏見城攻めに、長盛自ら参加しました。長盛の重臣の福原清左衛門を伏見城内に潜入させ、籠る甲賀衆の寝返りを促し、落城に導いている
1600年9月8日から京極高次籠る大津城攻めが始まり、大津城攻めには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 長盛は9月15日に行われた美濃関ヶ原本戦には参加せず、毛利輝元と共に大坂城の守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。長盛は三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理。その関係から三成からの西軍のため資金援助を断っています。家康の指示か長盛自身の考えかわからない。ここで運命が別れています。
関ヶ原の戦いで石田三成の西軍が敗れました。戦後の9月25日、長盛は出家して家康の謝罪しました。9月27日に大坂城西の丸にて家康から沙汰を申し渡され改易処分となった。長盛は身柄は高野山に預けられた。所領没収のほかに金1900枚と銀5000枚を差し出して命だけは助けられたとされる。
豊臣氏の滅亡と増田長盛の死
後に長盛は高野山を出て岩槻城主の高力清長の預かりとなって、岩槻にきました。長盛の息子増田盛次は家康の息子徳川義直に仕えていました。1614年(慶長19年)、家康は豊臣氏討伐の軍を発し、盛次は徳川義直軍勢に加わった(大坂の冬の陣)1615年(慶長20年)大阪夏の陣が始まる。盛次は義直のもとを突然出奔し、豊臣方の大阪城に入る。盛次の主君はあくまでも秀頼だった。大阪城落城して豊臣氏が滅亡すると、家康は戦後、長盛は息子盛次の大阪方に与した責任を取らすため自刃を命じられました。1615年5月27日岩槻で増田長盛は自刃しました。享年71歳

結論は、もしも増田長盛が徳川家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦いで戦況も西軍有利に転じ、石田三成ら西軍が勝ち、豊臣氏も滅亡を免れたかもしれない。
1595年
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