高島平の地名の由来になった。西洋砲術家高島秋帆による武州徳丸が原での洋式砲術訓練。

江戸時代

       (板橋区赤塚の松月院境内にある高島秋帆の功績碑)

 こんにちは、今日は江戸時代後期の天保期について話します。とこで、みなさまは、板橋区の高島平という場所を知っていますか?現在の高島平は都営地下鉄三田線の終点西高島平駅があり、またマンモス団地の高島平団地があります。その高島平には江戸時代には武州徳丸が原という名でした。徳丸が原で天保12年5月9日(1841年6月27日)で徳川幕府は日本初西洋式砲術訓練と洋式銃陣の訓練をしました。その指揮官が高島秋帆です。

         高島秋帆について

  ここで、高島秋帆について話します。秋帆は1789年(寛政10年)9月24日。長崎町年寄の高島四郎兵衛茂起の三男として長崎で生まれました。1814年(文化11年)17歳で家督を継ぐと町年寄りの見習になり、出島警護や鉄砲方を務める一方で、1808年にイギリス船フェートン号による長崎港に侵入及び強奪する事件が起こり、当時の長崎奉行が切腹しました。この事件で日本の兵力は鎖国で砲術の進化は止まっていたため、フェートン号の装備と大きな格差が生まれてました。これに危機感を持ったのが、高島秋帆は4年間出島のオランダの歩兵士官の元に留学し、オランダ語や西洋砲術を学びました。その甲斐あって天保5年(1834年)には高島秋帆は高島流砲術を完成させ、全国から弟子を募集しました。

        西洋式砲術演習と高島平の誕生

  1840年から隣国の清とイギリスの間でアヘンをめぐってアヘン戦争が勃発すると、清国の武力を高島秋帆が『オランダ風説書」で分析すると清国は敗北することがわかり、急遽、日本の砲術を西洋化にするべく、翌1841年に高島秋帆は長崎奉行を通して徳川幕府に西洋式砲術採用の建議が盛り込まれている意見書「天保上書」を提出しました。幕府はこの意見書を採用し、さっそく1842年5月9日に武州徳丸が原で高島秋帆指揮のもと日本初西洋式砲術と洋式銃陣の公開訓練をしました。秋帆の門人100名と見分役として老中水野忠邦が立ち会い、多数の大名関係、砲術家、蘭学者、江戸の庶民など見学人は総勢1000人なりました。公開訓練は大砲の不発もなく無事に終わり、秋帆が所有する大砲は幕府に授与されました。この訓練成功後、高島秋帆は老中阿部正弘から「火技中興洋平開基」と称されて、正式幕府に雇われれて、幕臣にも高島流砲術を教えました。

以上のように武州徳丸が原、は昭和44年に、この日本初西洋式砲術演習を指揮した高島秋帆の名をとって高島平としました。高島秋帆が公開演習を行った場所は、現在は大部分が高島平団地や高島平駅などに、あとは徳丸が原公園になっています。

  写真は、現在の都営三田線高島平駅近くの板橋区立徳丸が原公園には高島秋帆の功績を示す石碑。もう一つは板橋区立郷土博物館所蔵の西洋砲術演習図。最後の写真は現在西高島平駅構内  

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