柿田川公園内にある泉頭城は、実は幻の徳川家康の隠居所になる城であった。

江戸時代

   はじめに

 静岡県三島市に柿田川公園があります。柿田川公園は湧き水の柿田川湧水群で有名です。ここに泉頭城があります。泉頭城は天正8年の北条氏政と武田勝頼の抗争になった場所です。この城は大御所徳川家康が隠居の場所に選定しました。しかし、泉頭城は家康の隠居城にならずに駿府になりました。なぜ泉頭城は隠居城にならなかったのでしょうか?詳しく見てみましょう。

      泉頭

 泉頭城柿田川の水源地の泉頭に築かれた戦国時代の城郭です。地域は東西四○○メートル、南北五○○メートルあり、二ノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪小郭、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空堀で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。
 この城は戦国時代の終わり頃には小田原北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目を果たしていました。永禄12年(1569)後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、三枚城や清水町の戸倉城・三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐の武田信玄の侵攻に備えました。
 天正8年(1580年)武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎ずつ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正九年(1581)戸倉城が武田軍に降ると、泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正18年(1590)豊臣秀吉小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は防衛のため韮山城・山中城へ引き上げさせ、秀吉に備えました。

  (柿田川湧水公園の泉頭城の土塁)

   徳川家康の隠居所としての泉頭城

 1615年(元和元年)、家康は泉頭城跡が大変気に入りました。そして家康自身が駿府城から老後の隠居所と定め家臣の土井利勝本多正純に隠居御殿の城を造営することを命じました。翌1616年(元和2年)家康が亡くなると、急遽隠居御殿を取り止めになりました。その後、城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。

    泉頭城と柿田川湧水群

 現在、泉頭城跡は三島市の柿田川公園になっています。公園内に柿田川湧水群があり、観光客や市民の憩いの場所になっています。柿田川公園内には、また泉頭城の多く遺構があり、近くには本城山公園には戸倉城もあります。

(柿田川湧水群)
       (戸倉城跡(本城山公園))

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