横浜が戦火で燃えた日、昭和20年5月29日の横浜大空襲とは

明治・大正・昭和時代

     はじめに

 港町横浜は、例えば、みなとみらい地区・赤レンガ倉庫・山下公園・中華街・港が見える丘公園・野毛地区等には、現在多くの観光客が来て、今や横浜は国際観光都市なっていますが、80年前の昭和20年5月29日のアメリカ軍の空襲で横浜の町は焼け野原になってしまいた。それも現在の横浜では想像でないぐらいの焦土化です。なぜアメリカ軍は横浜を空襲したのでしょうか?詳しく見てみましょう。

     横浜大空襲

  1945年(昭和20年)5月29日の未明、アメリカ第21爆撃機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達し、10時半ころまで、約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を投下した。アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅・平沼橋・横浜市役所・日枝神社・、大鳥国民学校の5ヶ所に定めおり、当時の横浜市は木造家屋が密集していたので、焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町・保土ヶ谷区星川町・南区黄金町地区一帯とされている。

 星川町がアメリカ軍の攻撃の対象になったのは、被服廠があったからである。また横浜市立大鳥小学校は焼け残り、この小学校は戦後に自殺を図った東條英機元首相を収容した病院となった。

  (B-29 の絨毯爆撃を受けてるいる横浜市本牧地区)
 (横浜大空襲の日空襲を受けている横浜市神奈川区の青木橋付近)

横浜市は当時密集していた木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。

この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人。

   (横浜市中区弥生町の大通り公園内にある横浜大空襲の慰霊碑(平和祈念碑))

   日本軍の反撃

白昼の空襲であったことから、厚木海軍飛行場在住の第三〇二海軍航空隊の零銭と雷電や、天翔(第十飛行師団)の屠龍・鍾馗などの戦闘機、高射第1師団の八八式七糎野戦高射砲の活躍でB-29 を7機を撃墜した。B-29 175に損害した。被害面積は、17,8平方キロ、市域臨海部の34パーセントが壊滅、市の中心部で無事だったのは山手地区の大部分と山下公園付近のみ。臨海部の軍需工場よりも人口密集地域を破壊した

     横浜大空襲で失われた鉄道の駅

5月29日の横浜大空襲で失われた駅は、京急本線の平沼橋駅と東急東横線の新太田駅です。

    平沼橋駅

東急湘南線(現在の京急本線)1943年(昭和18年)6月30日限りで営業を休止し、翌1944年(昭和19年)11月20日付で廃止された。

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月29日、横浜市はアメリカ軍のB-29 を主力とする600機以上の大編隊による横浜大空襲を受ける。当駅周辺は米軍の攻撃目標の一つとされ、大量の焼夷弾により焼き尽くされた。廃止後も残存していた当駅施設は壊滅的な被害を受けた。

 戦後、当駅の構造物、特に線路上を跨ぐ形となっていた鉄骨の屋根の跡は架線柱の代用状態となっていたことに加え、戦禍を後世に伝えるべきという京浜急行電鉄の判断もありそのままの姿で残された。しかし鉄骨は戦後50年を経て老朽化で崩れる危険が出てきたことから1999年(平成11年)に撤去された。プラットホームの遺構はその後も戦争遺産として保存されることになり、腐食・崩壊を防ぐため、プラスティックでコーティング処理されて現存。この地に駅が存在していたことを彷彿とさせる。ホームには保線機材が置かれている。

(京急本線の先頭車両から見た平沼橋駅跡)

    新太田駅

 現在の東急東横線の東白楽駅と反町駅の間に存在した。1926年(大正15年)、路線の開業と同時に開設される。1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲で被災したため6月1日より休止とされ、翌年5月31年に廃止された。1949年(昭和24年)には、近隣(現在の反町公園)で日本貿易博覧会が開催されたため、臨時駅である「博覧会場前駅」として一時復活した。

廃止後も長く高架線に遺構が残っていたが、2004年(平成16年)に東横線の地下化工事が行なわれた際、高架橋が撤去され、消滅した。現在、付近は東横フラワー緑道の一部となっており、かつて高架下に残っていたのりば案内表示を模した記念碑が建てられ、駅があったことを示している。

    (東急フラワーロードにある新太田駅跡)

     文芸評論家寺田透さんと横浜大空襲

 横浜出身の文芸評論家寺田透氏は、その著書『わが井伏鱒二・わが横浜』横浜大空襲について回想しています。ここから、寺田透さんの文章を引用します。寺田さんは横浜市西区西戸部町に住んでいました。

           「横浜空襲

 間もなく五月二十九日が来る。それは二十六年前、横浜が数百機に及ぶB-29 の空襲を受けて、大規模に破壊された日である。僕のうちは隣り合った隣組のさかいにあったのでよく知っているが、僕の家のの属していた隣組は総員三十一名で九人死んだ。隣の隣組は総員二十九名で十一人死んだ。大体三組に別れて逃げたが、僕と一緒に逃げたが一組だけが無傷で、他の二組からは死者が出た。じゃが藷(じゃがいも)畑の土の中に鼻をつっこんで窒息から身を守り、堀りのこされた小さな藷を齧って渇きをしのぎ、いぶされる眼の痛みをこらえる何時間かが過ぎ、焼け落ちた家のあたりに戻った時、僕は路上で隣家の主婦の死骸を見た。逃げ出そうとした眼の前に落ちて来た焼夷弾の噴き出す火を、帯の上からまともに受けたかの女は、焼け残った着物のあいだから腸をさらけ出して倒れていた。十軒程向うの床屋の夫婦は、道路の向い側の空地に剃刀、バリカン、砥石を持って出、そこで七十九になる老母とともに死んでいた。死体の傍のアルマイトの弁当箱もその中から溢れ出、乾パンも焦げていなかったところを見ると、窒息死だったのだろう。学童疎開で遠方に行っていたため唯ひとり生き残ったそこの娘は、終戦後お酌に出たと聞いた。大きくもない家なのに、僕の家に落ちた焼夷弾筒だけでも二十四本もあった程の「絨毯爆撃」だったのだ。その一本が、天井を貫き、白熱光を放って、斜めに仏壇の前をかすめ、畳にささったのを、僕は振返ったっ刹那に見えた。

 玄関に逃げ込んでいた見知らぬ幼いふたりの兄妹を外に出し、僕はまだ火を消す気でいる母を呼んだ。幼い兄妹は、お母さんがここへ逃げてなさいと言ったのと言った。家の中は、火の手は見えないのに真っ赤だった。

 それから逃げる目の前の道路に、ずぶずぶと、一メートルおき位に突きささって行く鉄筒の列は今でも目に浮ぶ。

 僕は、当初、散発的な射撃をしたきり、沈黙してしまった近所の公園を陣地としていた高射砲隊の敷地内に、つまりわれわれの公園に、隣人たちと共にに駆け込むつもりだったのだ。しかし子供のような、銃を持っていない裏門の歩哨(ほしょう)がわれわれを阻止した。火薬が爆発するとあぶないからというのがかれの理由だったように思う。

 軍隊とは所詮こんなものだという気がその時強くした。空襲被災記の頻発が、好戦的心情を刺戟するのを惧れながら、ともかくこれだけ書いておく。(1971年5月31日)

  以上が寺田透さんの『わが井伏鱒二・わが横浜』に書かれた横浜大空襲の体験です。

   アメリカは横浜大空襲したのか?

 そもそも、アメリカ軍は横浜に大空襲してたのでしょうか。その答えは、5月29日の前日の5月28日にアメリカ本国で第三回原爆投下目標地選定委員会が開催されていた。アメリカによる日本の各都市に原子爆弾を落とす候補で、第1回・第2回の会議で原子爆弾の落とす候補の都市に横浜が標的していたが、第3回で横浜が標的から外されたのは、アメリカは横浜には、最初から空爆でいく方針だったからである。もしも、横浜大空襲がなく、アメリカ側が最初から原子爆弾を横浜に落とす方針でいたら、日本は広島・長崎に続いて、横浜も原爆の被害を受けて、放射能の被爆や大惨事になったに違いない。

      まとめ

 現在、横浜は国際的観光都市になって、海外が問わず観光客が来ていますが、多くの観光客・最近の若者たちは、80年前の太平洋戦争でアメリカの空襲で横浜が焼け野原になったことを知っている人がどのくらいますか?知らない人もこの機に知ってほしい。80年前のことですけど絶対に風化して欲しくないです。もしかしたら、原爆が落とされたら横浜という都市は、今のような大都市になっていないかもしれないからです。

   参考文献

『わが井伏鱒二・わが横浜』(寺田透著)(文芸文庫)(1978年)


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