はじめに
長野県にある県歌『信濃国』があることは知っていますか?長野出身者、長野県民で知っている人と知らない人の二者なると思いますが、その『信濃国』の五番には、高遠城主仁科盛信が歌われてます。県歌に登場するほどなので、そのため仁科盛信の存在は長野県民に知られています。五番は仁科盛信の次は幕末の佐久間象山である。天正10年の織田信長による甲州征伐で、高遠城にも織田軍が押し寄せました。城主仁科盛信の判断で織田氏に降伏することなく徹底抗戦を選びました。なぜ仁科盛信は降伏することなく、反抗の道を選んだのでしょうか?
仁科盛信の生涯
仁科盛信は、甲斐の戦国大名武田信玄の五男として生まれる。母は信玄側室の油川殿(武田氏親類衆・油川氏の娘)。同母の弟妹に葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)がおり、武田義信・武田勝頼は異母兄にあたる。
盛信は、生年については1557年(弘治3年)とする説や永禄元年とする説、1565年(永禄8年)とする説等と諸説あって確定出来ないものの、兄弟姉妹関係を踏まえると1552年(天文21年)から弘治3年頃までの生まれであることは間違いないとされ、弘治3年説が採用されることが多い。
近世の系図類・編纂物では諱を「晴清」とする資料もあるが、父・晴信が将軍義から授与された「晴」の偏諱を授与することは社会通念上ありえないことから疑問視されている。
父・信玄は天文年間から信濃侵攻を本格化して信濃国人の被官化を進めるべく、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔化を図り、信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏も天文22年(1553年)に武田方に帰属し、その後父の意向によって盛信は仁科氏を継承し、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継いで仁科盛政の婿養子になったとされる。
仁科氏継承の時期について『甲陽軍鑑』は1561年(永禄4年)に父・信玄が仁科盛政が誅殺して盛信が継承したとしているが、古文書では永禄10年(1567年)までは養父とされる仁科盛政の活動が知られていること(「下之郷起請文」)、その2年後の永禄12年(1569年)に仁科領が武田氏の直接支配下に置かれていることから、仁科氏相続は同年以降ではないかという説が出されている。

勝頼時代の仁科盛信
信玄の死後は当主となった異母兄の武田勝頼に仕え、天正年間には仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行っており、盛信は武田領国と敵対する越後国との国境警備や交通路の掌握を、等々力治右衛門ら安曇郡の国衆に指揮している。また1577年(天正5年)には高野山遍照光院を仁科氏や安曇郡の国衆の高野詣の際の宿坊と定めた(『高野山遍照光院宛寄進状』)。
甲越同盟の締結後は国境警備を務め、1580年(天正8年)には同盟に基づいて西浜(新潟県糸魚川市)の根知城に進駐している。勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、1581年(天正9年)には対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城主を兼任する。盛信は信濃佐久軍内山城代の小山田昌成・大学助兄弟と高遠城に籠城した。
甲州征伐
1582年(天正10年)2月1日、新府城築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた木曽義昌は、ついに武田勝頼を裏切り、信長の嫡男織田信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。
武田勝頼は、真理姫から木曽義昌の謀反を知らされると大いに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5,000余を先発として武田軍を木曽谷へ差し向けた。さらに武田勝頼は、木曽義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑した。そして勝頼自身も軍勢1万を率いて出陣して上原城に入った。
天正10年(1582年)2月3日、織田信長は武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると織田軍による武田勝頼の討伐を決定、軍の動員令を発した。甲州征伐において、織田信長・信忠の父子は伊那方面から武田領内へ、信長の家臣の金森長近は飛騨方面から武田領内へ、同盟者の徳川家康は駿河方面から武田領内へ侵攻することが決定した。関東の北条氏政へは甲州征伐の詳細は知らされなかった。その後、情報収集の末、北条氏政は伊豆、駿河方面から軍の侵攻を開始した。
織田軍の編成
「織田信忠軍団」は、主に東美濃に勢力を張っていた武田軍の影響を駆逐・排除する戦いをしていた。武田征伐時には以下のような陣容であった。
- 大将:織田信忠
- 先鋒:森長可・団忠正・木曾義昌・遠山友忠
- 本隊:河尻秀隆・毛利秀頼・水野守隆・水野忠重
- 付属:織田長益他織田一門衆・丹羽氏次他
- 軍監:滝川一益
この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出している。
また、信長家臣の明智光秀らは朝廷に働きかけて、正親町天皇は「東夷武田を討て」との勅命を出した。この勅命によって、織田軍は武田家を攻める正式な大義名分を得た。この時点から、甲斐の武田勝頼とその武田軍は「朝敵」になった。
また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。ルイス・フロイスの『日本史』には、この時の織田信長の本隊の軍は、兵6万を率いる予定だったと書かれている。
織田信長軍の陣容は以下のとおりである。
- 織田信長
- 明智光秀・細川忠興・一色義定・筒井順慶・丹羽長秀・堀秀政・長谷川秀一・蒲生氏郷・高山右近・中川清秀
武田軍団の崩壊
天正10年2月3日、まず森長可・団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。
2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田軍の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊奈郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条氏長(九兵衛尉)が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻秀隆の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
天正10年2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。
天正10年2月14日に浅間山が噴火した。当時、浅間山の噴火は東国に危機が迫っている、不吉な前兆、と人々の間で言い伝えられていたため、浅間山の噴火を見た武田家の兵たちは大いに動揺した。これ以降、武田軍は士気が下がり、組織的抵抗が難しくなった。武田の一族縁者からも、次々と敵の織田方に内通する者が出てきた。
天正10年2月16日、武田軍は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた木曽義昌軍に敗北を喫した。
天正10年(1582年)2月17日、織田軍の織田信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻した。
同日、武田軍の飯田城主保科正直は織田軍とは戦わず飯田城を捨てて高遠城へと逃亡した(後に投降して戦後に高遠城主となった)。この武田軍が飯田城をあっさり放棄して逃亡した知らせは武田軍の武田逍遥軒信廉(勝頼の叔父)にも伝わり、信廉たちは大きなショックを受けて戦意を喪失した。その後、伊那大島城(下伊那郡松川町)だけでの武田軍の抗戦は不可能と判断し、武田軍は大島城から逃亡した。
高遠城の戦い
天正10年2月28日、河尻秀隆は信長から武田軍の高遠城の攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、信忠は率いる織田軍は、信濃伊奈郡にある仁科盛信の高遠城(長野県伊那市高遠町)を包囲した。

高遠城主の仁科信盛は、武田勝頼の異母弟であり、越後方面に在城していたが、1581年(天正9年)年)に高遠城主を兼任していた。この際に「盛信」から「信盛」に改名していることが指摘される。
信忠は地元の僧侶を織田方の使者として高遠城城主仁科信盛のもとに送り、降伏の証として黄金と書状を送り、高遠城の開城を促した。しかし、高遠城主の仁科信盛は、信忠の開城要求を拒絶して、その際、盛信の徹底抗戦の構えを見せるため、見せしめに織田方から使者の僧侶は、耳と鼻を削ぎとられて送り返された。
1582年(天正10年)3月2日、信忠は激怒して織田軍3万に高遠城の総攻撃を命じた。仁科信盛も譜代家老らと共にに高遠城で籠城した。盛信方3000の将兵で織田軍と激闘を繰り広げた。織田軍も岩倉織田家の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けたが、数で勝る織田軍に城門を突破され、城内に突入された。仁科信盛・らは奮戦した。中でも、『信長公記』諏訪勝右衛門(諏訪頼辰)の妻(原文では、諏訪勝右衛門女房)が刀を抜き打ち、切って回り、織田軍に相手に奮戦した比類無き働き前代未聞の次第なりと記されている。盛信らも力尽き小山田昌成・大学助、渡辺照、諏方頼辰は自刃した。武田方の高遠城は落城した。その後、この武田方の仁科信盛らの首級は織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は京にて晒し首となった。首を取られ残された遺体は、彼を崇める地元の領民によって埋葬された。そこは今も「五郎山」と呼ばれている。また高遠城跡に咲いている桜は他の桜よりも色が濃く、その理由は高遠城への攻撃により討ち死にした兵士の血を吸っているためと伝えられている(高遠城血染めの桜伝説)


まとめ
仁科盛信が降伏せず織田軍に抗戦したのは、戦わず降伏している武田方の伊那の諸城の中で自分の高遠城だけは、最後の抵抗しようと思い徹底抗戦した。滅びゆく武田家の中で武士として意地を見せた。
現在高遠城は桜の名所で有名で、4月には多くの観光客が来ます。でも多くの観光客の中で、高遠城址公園の近くで、仁科盛信の位牌が安置されている桂泉院を知ってる人は僅かだと思います。また五郎山の頂上には領民が仁科盛信の首なしの胴体を埋めた。仁科盛信の墓があります。五郎山に登る途中には高遠城で活躍した諸士の墓があります。
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