はじめに
鎌倉時代の初期に海外渡航計画があることは知っていますか?渡航者は鎌倉幕府の3代将軍源実朝で、渡航国は宋国でした。このことは2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人」でも放映されから知っている人はいるかもしれない。しかし、実朝の渡宋への渡航は結局は失敗しました。なぜ実朝は失敗したのか紐解いてみましょう?
源実朝と陳和卿
1216年(健保4年)6月8日、陳和卿は鎌倉に赴き「当将軍は権化の再誕であり、恩顔を拝みたい」と第3代鎌倉殿(将軍)になっていた源実朝への拝謁を希望した。そして6月15日にようやく陳和卿が実朝に拝謁した。陳和卿は実朝を三度拝み、突然泣き出した。実朝はその行動にうろたえたが、陳は「貴方は昔宋朝の育王山の長老であった。その時、我はその門弟に列していた」と述べた。それは実朝が5年前に見た夢に出てきた高僧の言葉と同じであり、その夢のことを実朝は誰にも話していなかったため、実朝は陳和卿を信用した。
実朝の南宋への渡航計画
実朝は何を思ってか?南宋に渡航計画し、1216年(11月24日)実朝は陳和卿に命じて大船を建造させた。翌1217年(建保5年)4月17日に完成した。進水式は由比ヶ浜で行われました。数百人の人員が約4時間かけて大舟を曳きましたが、その大舟は海に浮かばず。この造船には執権北条義時・時房らは反対しており、実朝はそれをふりきって造船を進めていましたので、「義時らが計画的に阻止した」のではないかと言われています。実朝の渡航計画は頓挫しました。大舟は砂浜で朽ち損じてしまった。陳和卿はその後の動向は定かではない。

まとめ
陳和卿は、造船にも詳しく、むしろ大仏や建物よりも船大工であった。そんな陳和卿が造った舟が、航海の途中で波に打たれて壊れるわけでもなく、「浮かばなかった」というのですから、これは何者かによって妨害された可能性が高いという見方が有力です。なお、その後、陳和卿の消息は、史料に一切登場しません。陳和卿は殺害されたか?実朝の渡宋計画は、無謀で鎌倉幕府内部では混乱しました。2年後の悲劇の序章になっました。
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