はじめに
みなさまは、日蓮宗の一派に不受不施派(ふじゅふせは)があることは知っていますか?多分知らない人がほとんどです。それでも知ってる人は、おそらく高校の学校の歴史の教科書で習ったと思います。教科書では、近世の徳川幕府の宗教弾圧の項で、キリスト教の次に名前が出てくるからです。ですが、なぜ日蓮宗の不受不施派が徳川幕府の宗教弾圧の対象になっているかが、詳しく書かれていません。そこで今回は不受不施派について話します。最後までお付き合ください。
不受不施派は日蓮宗の中でも過激ので、日蓮宗自体が過激な宗派ですが、不受不施派は、他の日蓮宗の宗派と違い、さらに過激です。他の宗派が為政者(幕府など)の布施(為政者から寺領を分与されること)などの支持を受けるのに対し、不受不施派はどんな為政者の布施などの支援も受付ません、あくまで日蓮宗の信者のみです。不受不施派が国家の弾圧の対象になったかのかは、豊臣秀吉の時代に遡ります。
豊臣秀吉の千僧供養を拒んだ日奥
1595年(文禄4年)時の天下人豊臣秀吉は、方広寺境内に組み込まれていた巨大な経堂で、秀吉は母方の祖父母の供養のために京都及び周辺の近郊に拠点を有する仏教八宗(天台宗・真言宗・律宗・禅宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・浄土真宗)に対して、各宗派ごとに100名の僧で千僧供養に出仕するよう命じました。しかし、大和に拠点を有する南都六宗には要請せず、あくまで京都近郊の仏教が対象でした。母方の祖父母の月命日の9月25日から毎年千僧供養を開催。各宗派で対立があったけど、秀吉の命令には逆らえず。しぶしぶ参加しました。日蓮宗も例外なく他の宗派と並んで合同での千僧供養への参加を拒否しようとしましたが、秀吉が参加を拒否すれば京都にある日蓮宗の寺院を破却すると脅してきたので、千僧供養への参加しました。同じ日蓮宗でも不受不施派の妙覚寺の僧日奥(にちおう)は、秀吉から千僧供養への参加要請されたが、日奥は不受不施の教義を貫いて、日蓮宗の受布施派と違い頑固として、法華経の信者でもない秀吉の命令を拒みました。日奥は秀吉に「法華宗諌状」を提出し、千僧供養の開催日9月25日に妙覚寺を出て、京市内を転々としました。その後、前田玄以の領地丹波国小泉に日奥の蟄居した。

大坂討論と日奥の対馬配流
1598年(慶長3年)8月18日、伏見城で太閤豊臣秀吉死去すると、いまだに千僧供養への出仕を拒む日奥の公命違反は、日蓮宗の破滅だと思い。日蓮宗では本圀寺で京都十六本山会議を開き、日奥実状を大坂にいる豊臣政権の内大臣徳川家康へ訴えた。翌1599年(慶長4年)大坂城に訴えた受不施派代表の妙顕寺日紹と不受不施派の日奥を呼び寄せて、家康の前で、豊臣政権の定例になっている千僧供養出仕をめぐって受布施派日紹と不受不施派日奥で討論させました。討論内容は不受不施派の千僧供養への出仕を求めた。日奥に家康は妥協案を出し、何とか千僧供養に参加を求めたが、日奥は、あくまで不受不施の教義を曲げずに家康の求めを拒否。家康は再三日奥の教義を変えようとしたが、あくまで日奥の教義を貫いて、ついに家康は激怒しました。1600年(慶長5年)1月6日、家康は日奥の教義の不受不施派は「国家の安寧を乱す宗教」と認定し、日奥の袈裟と数珠を剥ぎ取りました。そして、日奥を対馬へ配流しました。以上が大坂討論です。

その後の日奥と不受不施派
対馬に配流されて23年後の1623年(元和9年)に日奥は赦免され対馬から帰国。対馬では、日奥は国昌寺に滞在し、過ごしました。1630年(寛永7年)4月22日不受不施派の開祖日奥は京都妙覚寺で死去。享年66歳。
1630年5月13日、日奥死後、徳川幕府は江戸城で身池討議が開催されました。幕府は受布施派の身延山久遠寺の日暹(にっしん)と不受不施派の池上本門寺の日樹(にちじゅ)を江戸城に討論させました。この討論でも不受布施派を協議を変えずに、ついに幕府は、神君家康公の不受不施派へ下した裁き違反したと理由で、不受不施派の日樹を信濃伊那に配流。さらに亡くなっている不受不施の開祖日奥を再び対馬に流した日奥は遺骨状態であった。
これ以降、徳川幕府は日蓮宗不受不施派を天下を乱す宗教とし、キリスト教と同じく弾圧した。
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