石田為久は相模蘆名氏の出自
源頼朝の家臣である石田為久は、元々相模国最大の御家人三浦氏の出で、衣笠城で戦死した三浦義明の弟為清が、相模三浦郡蘆名郷(現神奈川県横須賀市芦名)に移り住んで蘆名為清と名乗った。為清の息子蘆名為景が、さらに相模国大住郡糟屋庄石田郷(現神奈川県伊勢原市石田)に領地を貰い蘆名為景・為久父子は、石田郷から姓を取って石田為景・為久と名乗った。
木曽義仲征伐での石田為久の活躍
時代が進んで治承・寿永の乱で、源頼朝が京の都で朝廷に謀反した木曾義仲討伐のために弟の源範頼・義経を派遣しました。石田為久は範頼軍に従っていました。1184年(寿永3年)1月21日、近江国の粟津で範頼軍と義仲軍が激突しました。(粟津の戦い)合戦に敗れた義仲は北国に逃亡しようとしてる際、義仲が乗っていた馬の足が粟津の松原の深田にはまってしまい身動きできなかったところ、石田為久はすかさず矢を放って、為久の放った矢が義仲の兜の内側を射抜いて、義仲は馬上から倒れてしまった。そこへ石田為久の郎党二人が駆けつけて義仲の首を取った。戦後、木曾義仲を討ちとる活躍した石田為久は、その功績で頼朝から伊豆国に三千町と近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市石田町)に領地を与えられました。

(義仲寺の木曾義仲の墓)
石田為久と石田三成
石田為久と、その子孫の石田三成に共通点があります。その共通点は旗印です。石田三成の旗印「大一大万大吉」です。三成が関ヶ原の戦い使用していました。「大一大万大吉」の意味は、(一人が万民のために、万民が一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になるだろう) 元々「大一大万大吉」の旗印は、石田為久が1184年に木曽義仲討伐に従軍する時に使用したのが最初です。
石田三成と会津蘆名氏
ここで、最後に石田三成と伊達政宗に滅ぼされた戦国大名の会津蘆名氏の関係をは話します。会津蘆名氏と石田三成の先祖の相模蘆名氏とは同族です。会津蘆名氏の祖佐原十郎義連が三浦義明の七男で、石田三成の祖石田為久とは従弟にあたります。ここで意外な繋がりを話します。徳川家康の側近に南光坊天海という坊さんがいます。天海は戦国一の長生きで、あの明智光秀と同一人物とも言われてますが、確たる確証がないので伝説だと思いますが、その天海は会津蘆名氏の出自とされいます。そうなると石田三成と天海は先祖が同じ三浦一族で、同じ血が流れています。


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