はじめに
先日、大阪に行った折、北畠顕家が戦死した石津古戦場を見学しようと訪れました。石津古戦場へは天王寺駅前から阪堺電車と呼ばれる路面電車で堺を過ぎて石津停留場で下車。石津川を越えたところに石津の戦いの史跡があります。史跡は、北畠顕家と南部師行の墓と北畠顕家奮戦の石碑だけです。北畠顕家と言えば。面白い事実がありました。それは意外な共通点がある戦国大名いました。その人物は甲斐の戦国大名の武田信玄です。武田信玄は北畠顕家の時代から200年後の戦国時代の人物です。両者の間には一体どのような共通点があるんでしょうか?

石津の戦いに至るまで北畠顕家の行動
1337年(延元2年/建武4年)8月、後醍醐天皇より足利尊氏追討と京都奪還の綸旨により北畠顕家は義良親王を報じて奥州の軍勢を率いて霊山城を出陣しました。白河関、小山を経て、1337年12月に鎌倉に入り北朝方の斯波家長が籠る杉本城を攻め落とし、足利勢を駆逐して鎌倉を占領。鎌倉で北畠軍には中先代の乱の首謀者北条時行(逃げ上手の若君)と新田義興の二人が加入して軍勢がさらに膨れ上がった。
青野原の戦いと伊勢転戦
翌1338年(延元3年/建武5年)1月2日、北畠顕家率いる奥州遠征軍は鎌倉出陣し、1月12日に遠江橋本、1月23日尾張国に達した。一方、北畠軍の接近に際し、足利尊氏は尾張・美濃国守護にヘ兵を動員を命じ、総大将を土岐頼遠に任じた
1338年1月20日、美濃青野原で足利・北畠両軍が激突しました。この戦いで北畠顕家率いる遠征軍は奮戦し、北朝方の足利軍を破り、一時は総大将の土岐頼遠を行方不明になるほど、足利軍に大損害を与えた。しかし、顕家も兵力の減少や疲労により京都進撃を諦めて、2月に伊勢に転戦した。
新田義貞との連帯
『太平記』では、北畠顕家はが伊勢ではなく越前に向かい新田義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと描かれている。」また『太平記』の描写については、顕家は新田義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、顕家が義貞との合流を拒んだのは、義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測されるさらには、新田義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧と平定を重視していた。この当時、足利方の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘されるは伊勢に勢力を持っており、青野原で勝利したとはいえ、遠征軍自体が疲弊していたので、北畠顕家は越前に向かうより伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測される。
畿内各地での北畠顕家の奮戦
1338年2月4日、足利尊氏の命により、高師泰・高師冬・細川頼春・佐々木氏頼・佐々木高氏らが北畠顕家討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、北畠顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった。2月21日、顕家は辰市および三条口で戦い大和を占領するが、2月28日に顕家は般若坂で足利軍と激戦の末に足利方の桃井直常に敗れた。そのため、北畠顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。
北畠顕家は河内国に退き、伊達行朝・田村輝定ら共にに戦力再建を図り、顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺で足利方に勝利した。だが、3月13日に北畠顕家率いる奥州軍は足利軍再び天王寺・阿倍野および河内片野(片埜・古名、交野とも)で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。
3月15日に北畠顕家率いる奥州軍は足利軍に渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した。3月21日、足利軍は軍勢を立て直した高師直は、これを追撃し南へと向かった。3月22日、南朝方は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、北畠顕家を救援するように命じている。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている。
5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏・日野根盛治・田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。

『 北畠顕家上奏文』
北畠顕家が石津で討死する一週間の5月10日に、北畠顕家は後醍醐天皇による建武政権の失敗と東国経営などの地方分権を記した上奏文を草した。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏した(『北畠顕家上奏文』)
石津の戦い(1338年(延元3年/建武5年)5月22日)

西上してきた北畠顕家率いる南朝方は、奥州軍の軍勢の旗印といえる義良親王も、すでに吉野に遷しまい。顕家率いる奥州軍は兵を分け寡勢となっていた。5月6日(西暦5月25日)には、奥州軍は石津・堺浦を焼討にして、北朝方の細川顕氏・日野根盛治・田代基綱ら勢力と尚も交戦を続けた。 これに対して足利尊氏の命で兵1万8千を率い、男山の北畠顕信に備えていた高師直は、自ら兵を分け北畠顕家討伐に向かい、5月16日(西暦6月4日)高師直率いる足利軍が天王寺から堺浦に向かって出撃し、北畠顕家の軍兵を待ち受けていた。
1338年5月22日(西暦6月10日)、北畠顕家は軍勢を率いて観音寺城を出陣し、堺浦に向かった。堺浦で両軍は激突した。最初は顕家は足利軍に対し善戦したが、顕家率いる奥州軍は寡勢に加え、長期遠征での疲労のため劣勢になった。また堺浦には足利軍に加勢した瀬戸内海水軍が足利軍を後方支援しながら、奥州軍に攻撃を加えたため、奥州軍は数百人に減ってしまった。
北畠顕家は兵200と共に石津で足利軍に包囲されて、決死に戦い的中突破して吉野に向かうが、途中で落馬してしまい、そこへ足利軍に攻められ顕家は討ち取られた。北畠顕家に従っていた陸奥の名和義高・南部師行も奮戦して討死した。


北畠顕家と風林火山の旗
冒頭にも書きましたが、北畠顕家と戦国大名の武田信玄の共通点は、信玄の軍旗になっている「風林火山」です。実は「風林火山」を最初にしたのは北畠顕家でした。
「風林火山」の旗を用いたのは、北畠氏が中国の兵法書の『六韜』の軍学を奉じていたのに対抗するためと言われることが多い。大阪阿倍野神社蔵の伝北畠顕家の旗に、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という文言があるといい、信玄は北畠顕家の旗を元に「孫子の旗」を作ったという説がある。

北畠顕家の死後
北畠顕家の討死後、同年閏7月の新田義貞も越前藤島の燈明寺縄で討死してしまったため、南朝は大打撃を受けた。その一方で、北朝方は室町幕府を成立させた。幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていくことになった。
顕家の死後、6月21日に日野資朝の娘である妻は河内国歓心寺で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の北畠顕信は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に伊勢国司の北畠顕能を畿内に残し、義良親王を奉じて北畠親房らとともに陸奥へ向かった。だが、北畠親房らを乗せた船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、常陸各地で北朝方と戦った(常陸合戦)。しかし、1343年(興国4年/康永2年)11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。
一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、1347年(正平2年/貞和3年)霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。観応の擾乱によって起こった北朝側の奥州管領の対立に乗じて多賀国府を一時占拠するものの翌年には奪い返され、南朝勢力の回復には至らなかった。
嫡男の北畠顕成は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり浪岡北畠氏の祖となったとも、九州に下向して懐良親王に従軍したともされ、事跡が明確でない。一方、次男の北畠師顕の系統は時岡氏となったという。
まとめ
北畠顕家は最近人気になっています。その人気は、少年週刊ジャンプで連載されている『逃げ上手の若君』に所以です。『逃げ上手の若君』に北畠顕家にも登場します。石津の戦いと北畠顕家の討死も描かれてます。

また北畠顕家は文武両道ともに優れた人物で、公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達氏といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。南朝軍総大将の新田義貞と同様、後醍醐天皇から期待された存在であった。そのため顕家を失った南朝にとっては大きな痛手だった。
北畠顕家の容姿ついては凛々しいは美少年と言われてますが、これは、後世に伝わっていますが、だいぶ脚色さていますが。実際の顕家の容姿は当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年には、北畠顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。
大阪には北畠顕家に関連する史跡は石津古戦場の他に、まだあります。大阪市阿倍野区北畠公園内に顕家のものと伝えられる墓がある。ただし、『太平記』などの伝承に基づき、死後およそ400年後の享保年間に並川誠所の提唱によって立てられたものである。
また阿倍野区にある北畠顕家を祀っている阿倍野神社には、北畠顕家の銅像がある。この銅像はNHK大河ドラマ「太平記」が放映されたことを記念して1991年(平成3年)に建立されたもので、除幕式には北畠親房・顕家親子を演じた近藤正臣・後藤久美子も列席した。
北畠顕家が陸奥国府を築いた霊山には霊山神社が建てられ、北畠顕家親子らを祀っている。ここにも北畠顕家の銅像がある。





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