はじめに
皆さんは、唱歌・童謡『牛若丸』を知っていますか?
【歌詞】 牛若丸
『京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる
牛若丸は飛び退いて
持った扇を投げつけて
来い来い来いと欄干の
上へあがって手を叩く
前やうしろや右左
ここと思えば またあちら
燕のような早業に
鬼の弁慶あやまった』
子供の頃、親、または祖父・祖母や学校・などで歌った人も多いと思いますが、この歌詞にある五条の大橋は、現在京都市の河原町五条にある五条大橋だと思っている人が、たくさんいると思いますが、実は違います。実際は五条大橋より北にある松原橋です。ここから詳しく話します。

武蔵坊弁慶と牛若丸
この松原橋に夜な夜な出没するのが比叡山の荒法師の武蔵坊弁慶です。松原橋は清水観音から堀川小路に至る五条通りに架かる橋で、弁慶は平家方の武士を襲い刀を奪っていました。なぜ平家方の武士ばかり襲われるのでしょうか?それは松原橋の近くに平家の拠点六波羅があったからです。(現在は六波羅蜜寺という寺になっています。)弁慶は今日まで刀を999本まで集めいて、今晩襲って刀を集めたら念願の1000本になります。松原橋に来ると白い狩衣を羽織った薄墨の笛(うすずみのふえ)」を吹いている色白の少年に出会いました。最初は弁慶は無視してましたが、その少年が指してる太刀が立派な太刀なので、太刀を置いてと言いましたが、少年は弁慶の横を素通りしたので、弁慶は少年に薙刀を振り回して襲ったが、少年は薙刀をかわしては橋の欄干に立ち、弁慶が襲うたびに欄干から欄干に移ったるので、さしもの弁慶も翻弄され、しまいには少年に対し許しこうた。弁慶は少年に服従し家来なりました。その少年の名は牛若丸です。以上が一般的知られている牛若丸と弁慶の話です。
牛若丸とは源義経の幼名で、遮那王とも呼ばれています。鞍馬山で鬼一法眼の師事で武芸の稽古を励み、伝説では鞍馬山のカラス天狗に武芸をならっとも言われています。
義経の伝記を記した。室町時代に成立した『義経記』では、話が異なりなります。弁慶と牛若丸が出会ったのは松原橋ではなく五条天神です。五条天神で出会い戦いますが敗れて、翌日弁慶は、今度は清水観音(清水寺)の門前に待ち伏せして、再度牛若丸を襲いましたが、牛若丸に翻弄され負けて家臣になりました。一般的な牛若丸と弁慶の話と『義経記』では、話が違うのでしょうか?

(『義経記』で牛若丸と弁慶が二回目に戦った 清水寺観音)
それは、明治時代に伽噺作家の巌谷小波(いわやさざなみ)が1894年~1896年に執筆した『日本昔噺』(にほんむかしばなし)で牛若丸と弁慶の話を取り上げた際、二人の出会いを、松原橋じゃなく、現在の五条大橋としたためです。明治の頃には五条大橋が存在しました。冒頭で紹介した童謡『牛若丸』も『日本昔噺』の牛若丸の話をもとにしてます。『義経記』とは大きくずれます。また弁慶の1000本の刀狩りの話も仏教寓話から取られています。
現在の五条大橋完成
牛若丸と弁慶が出会った五条橋と言われた松原橋は、時代が進んで変わった。織豊時代に豊臣秀吉が新たに方広寺大仏を造営する計画し、その大仏参詣するために参詣客の便宜を図るために、秀吉は家臣の増田長盛を造営奉行に三条大橋とともに、鴨川に新たな橋を建設を命じた。新たな五条大橋(現在の場所)を松原橋から南に建設。新しい五条大橋は石柱であった。
(現在の五条大橋)

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