源頼朝と源義経兄弟争い謎。梶原景時の讒言でなく、義経の行為に原因があった。

鎌倉・南北朝・室町時代

       はじめに

 皆さまは「戦略」と「戦術」という単語をしっていますか?ビジネスでも使われる重要な単語です。はこの二つは字面は似ているが意味が違います。「戦略」は一般の定義は

長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される

 「戦術」の定義は一般の定義は

個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通,長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する

歴史上でも「戦略」と「戦術」は使われます。「戦略」と「戦術」の例として、

 例えば、1866年の普戦争で、プロイセン軍の名将モルトケは「戦術」を用いてでケーニヒグレーツでオーストリア軍を破って、プロイセン軍の決定的な勝利に導きました。会戦後、モルトケ率いるプロイセン軍はウィーンより60kmにあるニコルスブルグまで前進しました。そこで鉄血宰相ビスマルクは軍のウイーンへの進軍をストップさせました。これにはモルトケをはじめ、現場の軍人たちは不満であった。もう少しでオーストリアを滅亡させられると思ったからです。ビスマルクの政治的配慮により禍根を残さずに次の戦争に備えるためで、ビスマルクのドイツ統一を妨害するオーストリアを排除するためで、オーストリアの討滅を目的でないためです。これは、明らににビスマルクの戦略勝ちであった。ビスマルクの「戦略」の前では戦術家のモルトケも駒の一人あった。

  前置き長くなりましたが、日本の平安時代末期に起こった治承・寿永の内乱でもありました。源頼朝源義経の争った原因に「戦略」と「戦術」のズレにありました。次からこの兄弟が争った原因を紐解いてみましょう。

  寿永の内乱での源義経の活躍

  富士川の戦い後、黄瀬川の頼朝の陣営に源義経が奥州平泉から駆けつけて対面したのが、二人の出会いでした。この後、頼朝は鎌倉で政権の基礎を固めました。次の義経の活躍は木曽義仲討伐の時で、頼朝は義仲の動向を偵察のため義経を近江に派遣しました。義仲と後白河法皇と対立して、朝廷から義仲追討を命じられた源頼朝は、弟源範頼と共に義経は義仲軍と合戦しました。合戦の結果、粟津で木曽義仲が討ち死にで終わりました。

 木曽義仲滅亡後、義経は範頼と共に朝廷から平家追討を命じら、西国に進軍しました。義経率いる軍勢は山陰道から摂津一ノ谷へ、一ノ谷平家の陣営を背後の鵯越から奇襲して平家勢を破って、平家勢を海上へ追い出しました。(一ノ谷の戦い)

 一ノ谷の戦いの後、源範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。1184年(元暦元年)6月、朝廷の小除目(こじもく)が行われ、源頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった。(義経は範頼が三河守の就任に対し一ノ谷の功労者の自分が無官に納得がいかないと不満を言った)義経はその後、平氏追討のために西国に出陣することが予定されていたが三日平氏の乱(1184年8月6日)が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼が代わりにあたることになった。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。一方、義経は三日平氏の乱の後処理に追われていた。この最中の8月6日、源義経後白河法皇より左衛門少尉・検非違使に任じられた。9月に義経は頼朝の周旋により河越重頼の娘郷御前を正室に迎えました。

一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得ました。 1185年(元暦2年)2月新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し(この時、義経は軍目付の梶原景時と出陣を巡って対立)讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平家を敗走させた(屋島の戦い)

 源範頼率いる軍勢も九州へ渡ることに成功した。範頼軍は平家方の最後の拠点である長門国彦島にを攻めて、平家の背後を遮断した。一方の義経は河野通信の伊予水軍と紀伊の熊野水軍を味方につけ、水軍を編成して彦島に向かい、1185年(3月24日)壇ノ浦ので勝利して、ついに平家を滅ぼした。(壇ノ浦の戦い)

 頼朝の戦略を理解できなかった戦術の天才義経

 壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、ここでミスをしました。それは三種の神器と安徳天皇の奪還です。戦いで、平家の敗色が濃くなってきた時、平家の公達・武将が次々と海中に身を投げだした。清盛の未亡人二位尼は幼帝の安徳天皇を抱き、海中に没してしまった。その際、三種の神器も海中へ、三種の神器の内、宝剣を海中に沈んでしまいました。しかし玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。あるいは、一度失われたものの、源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたとも言う。この結果を聞いた頼朝は激怒した。義経には三種の神器と安徳天皇の奪還を命じてあった。なぜなら後白河法皇は三種の神器なしで後鳥羽天皇を即位させてしまった。後白河法皇は三種の神器なし即位させてしまったことに後ろめたさがあった。(今まで、三種の神器なし即位した天皇がいない)

    (三種の神器のレプリカ(本物非公開)(義経は宝剣なくした)

  源頼朝は、そこに狙いをつけた。三種の神器の奪還と平家に連れ去られた安徳天皇の保護し、これ取引材料に後白河法皇と交渉して、頼朝の鎌倉政権(鎌倉殿主体とする武士政権)を独立を認めて貰おうとしました。(「寿永二年十月宣旨」で朝敵ではなくなったけど、完全に朝廷から認められてない政権)これが頼朝の「戦略」であった。しかし、義経のミスで頼朝の「戦略」を台無しにしてしまった。

頼朝は失望が大きかった。義経に期待しただけに、(義経の配下に弁慶や元盗賊いるから三種の神器奪還を期待していました)それと軍目付梶原景時から壇ノ浦での義経の軍令違反などを報告。

兄頼朝の「戦略」を本当に理解できなかったことが義経の悲劇のはじまりであった。

  義経任官問題から義経追放

 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、4月15日後白河法皇から義経と以下平山季重・佐藤忠信ら23人が頼朝の内挙を得ずに任官しました。頼朝は激怒しました。これは頼朝の御家人の自由任官を禁止令違反でした。これは頼朝の目指した鎌倉政権の独立構想を潰しかねない行為であった。内挙せずに自由任官を許したら、頼朝自身が構想した政権が独立性がなく、朝廷の一部なりかねない。頼朝の怒りをすさまじく任官した平山季重ら23人の御家人を罵り、23人の御家人の資格を剥奪と墨俣川以東に入ったら殺害すると宣告ししかし、しかし、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。

 4月21日、平家追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と内容でした。また景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月に頼朝は、御家人達に義経に従ってはならないという命が出さ。そ。その頃、義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、平宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越満福寺の留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じる。義経頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経が所有する平家没官領を全て没収した。ただし延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面し、慰安されたのち鎌倉の外れで待機したとあり、また『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとあることから、『吾妻鏡』による上記の記述は誤伝または曲筆で実際には義経は鎌倉入りしているとする説もある。。6月21日、義経はに近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。

だが近年の研究では、腰越状は内容に不審があり、文体などからも後世の偽文書であるとの見方が大勢を占めている。『吾妻鏡』で義経が腰越にいたと記されるのは5月24日のみで、その前後の5月15日と6月9日の記事では腰越の30kmほど西の酒匂にいたとあり、これは24日の記事が腰越状の伝承を挿入する形で編集されたために生じた錯誤と考えられる。さらに延慶本『平家物語』によれば義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後に京に戻ったとされており、『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとあることから、義経が鎌倉入りを許されなかったというのは『吾妻鏡』の誤伝または曲筆であり、実際には義経は鎌倉入りしているとの説が近年では有力である。6月時点での決裂は『吾妻鏡』以外の史料にない『吾妻鏡』の独自記事であり、もしこの時期に頼朝義経が決裂していれば、頼朝は義経を拘束し処罰していたはずで、実際の決裂は以下の8月16日における伊予守補任以降と考えられる。

 8月16日には頼朝の推挙による小除目があり、義経も源氏6名の叙位任官の一人として、伊予守に補任される。一応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。9月2日、平時忠が5月20日に能登に配流の決定が出されていたにもかかわらず、義経の舅となった縁によって未だ京に滞在していることにより、頼朝の怒りを買っている。頼朝は京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男梶原景季を遣わし、叔父源行家の追討を指示した。だが義経景季の前に憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に、病が癒えてから計略を考えると答えた。そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任されではなかった。

     義経謀反と没落

 10月、梶原景季から義経の病が仮病であり、すでに源行家と同心していると報告を受けた頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。11日、義経後白河法皇に、行家が頼朝に対して反乱を起こし、制止しようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞し、法皇はさらに行家に制止を加えよと命じた。13日、義経行家に制止を加えたが承知せず、自分も行家に同心したと述べ、その理由として頼朝による伊予国の国務妨害、没官領没収、刺客派遣の噂を挙げ、墨俣の辺で一戦を交え雌雄を決したいと言った。法皇は驚き、重ねて行家を制止せよと命じる。だが16日夜、義経はやはり行家に同心したと述べ、頼朝追討の宣旨を要求した。さらに勅許がなければ身の暇を濃い鎮西に下向すると述べ、天皇・法皇・公家をことごとく連行していくことをほのめかしたため、法皇周辺は騒然となる。17日、土佐坊ら60余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が軍勢を率いて加勢し、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた土佐坊昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首した。義経は行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、18日に頼朝追討の院宣が出されたが、頼朝が亡き父源義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。

 10月24日、頼朝は源氏一門や多くの御家人を集めて、父源義朝の菩提を弔むために、勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討の宣旨に対抗して御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者は小山朝政・千葉常胤わずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討伐するべく、10月29日に軍勢を率いて鎌倉を発つと、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。(黄瀬川は最初に頼朝と義経と対面した場所です。)対する義経は頼朝追討の兵が集めらず、後白河法皇に九州・四国の支配権を認めさせた後、11月3日、郎党や叔父源行家と共に戦わずして京を落ちた。

   北条時政の上洛と文治勅許

1185年(文治元年)1月8日、源頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、源義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では後白河法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11月11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は義経追討の院宣を諸国に下した。 12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して義経捕縛のためにを進言した。これに賛同した頼朝は、鎌倉政権の独立化のため周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。

 1185年(文治元年)11月24日、頼朝は自分の代官を舅の北条時政にして、軍勢1000騎を率いさせて京へ上洛させた。時政は院の御所に入ると、「頼朝追討の院宣」が出されたことに対する頼朝の憤激を伝えました。逆に11月28日、頼朝の代官北条時政吉田経房を通じて後白河法皇に源義経・源行家らの謀反人逮捕と全国に荘園・国衙守護・地頭の設置を要求。後白河院は義経らの要請で「頼朝追討の院宣」を出したことに後ろめたさ感じてたか。源頼朝の要求を受け入れ、源義経ら逮捕の目的の日本国惣追捕使(守護)・日本国総地頭(地頭)・荘園領・国衙領からの段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権を与えた。

 これにより、頼朝は朝廷から全国の軍事権・警察権を掌握した。だが、この時の頼朝の鎌倉政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)などに限定されていた。(文治勅許)

 12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝廷の政治の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける]議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、九条兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。    

        まとめ

兄の頼朝の戦略を理解できなかったばかりに義経は自分から没落の道に突き進みました。では、義経が没落を免れるようにするには、一体どうすれば良かったか?頼朝・義経兄弟には意思の疎通が欠けていた。頼朝が義経に最初から平家討伐と同時に安徳天皇と三種の神器の奪還を厳命すれば、義経も壇ノ浦で兄のために細心の注意を払ったかもしない。しかし、結果は頼朝の思惑通りに行かなかった。もしも頼朝と義経の抗争は回避できたとしても、義経の政治センスでは、いずれ後白河法皇に利用されかもしないし、いずれ頼朝が奥州藤原氏攻める時、奥州藤原氏の処遇をめぐって、頼朝と義経の対立し、場合によったら、義経が奥州藤原氏側に寝返るかもしれない。結局、どうやっても、義経の没落は目に見えてます。

 この一連の出来事と寿永二年十月宣言で鎌倉幕府成立とされているが、まだまだ頼朝の鎌倉政権は東国支配限定で、東北に奥州藤原氏・西国は権門勢家や院の支配が強く。一応、鎌倉幕府は東国限定で成立したことなる。

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