河尻秀隆よる甲斐統治の謎、果たして甲斐国の領民に圧政をしていたか?

鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代
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       はじめに

  先日、自分は私用で山梨県甲府市に行きました。その際、武田神社から甲府駅に戻る途中に川窪町行きあたり、そこには武田信玄火葬塚という墓がり、その前に河尻秀隆の墓と伝えられる河尻塚を見つけまして、見学しました。河尻秀隆織田信長の家臣団の中では、メジャーではないけれど、そこそこ知られている人物でありました。天正10年3月武田氏が滅亡後した、河尻秀隆は信長から甲斐統治をまかされました。しかし、本能寺の変後、今まで河尻の統治で圧政で苦しめられた甲斐国の領民達が一揆となって、一斉に蜂起し、川窪の河尻秀隆の館を襲撃し、秀隆は一揆勢になぶり殺されました。これが通説です。果たして本当にそうでしょうか?ここで疑問をもちました。次から詳しく述べます。

    河尻秀隆の戦果と武田征伐                

 美濃岩村城主である河尻秀隆は、信長の黒母衣衆で、1574年(天正2年)に信長の嫡男織田信忠が織田家の家督を継ぐと、秀隆もまた、信長の命で信忠付きの家臣になりました。長篠の戦以降の岩村攻め信忠の副将として従軍しました。また1582年(天正10)2月から、はじまる武田征伐には、秀隆は信忠軍として岩村城から出陣し武田領の伊那路を進み、仁科盛信が籠る高遠城を攻め落とし、伊那高遠から杖突峠を超えて上諏訪に入り 信忠の命で滝川一益と共に織田軍の先鋒隊を努めて、天正10年3月11日に天目山麓の田野で武田勝頼一行に追いつき合戦をして、勝頼らを討ち取って武田氏を滅ぼす活躍しました。

   武田氏滅亡後河尻秀隆の甲斐統治  

  諏訪の法華寺で信長は武田征伐の論功行賞を伴う知行割を行い、河尻秀隆は武田氏を裏切った穴山梅雪の所領河内領を除く甲斐国22万石と信濃国諏訪郡を与えられた。信長は秀隆と穴山梅雪の領土の境界線を決めなかったので、秀隆の重臣と穴山梅雪の重臣の協議の上で決めるように指示した。河尻秀はは、甲斐統治の本拠は武田氏と同じく躑躅ヶ崎の館したが、一説には甲府近郊の岩窪館を本拠とした言われている。また諏訪郡の方には秀隆の家臣弓削重蔵を代官として高島城遣わした。

  秀隆の甲斐統治は甲府周辺にに黒印字の書状を用いて発行しました。その書状には武田氏滅亡の混乱で、戦火を恐れて逃亡した農民に対し環住(げんじゅう)(元いた場所に戻ること)すれば、作職(さくしき)を安堵すると呼びかけた。また富士北麓や都留郡への書状には富士吉田の西念寺の寺領安堵と富士山参詣者の勧進の免許与えること。また富士講の御師の権利を認めることが書かれていました。河尻秀隆の甲斐統治は広域範囲行われたことがわかる。現在甲府盆地、富士北麓、都留に河尻秀隆の文書が残ってます。

   

       (富士吉田西念寺本堂)

 また秀隆は、武田氏の遺臣の九一色衆(甲斐辺境の武士団)の一員で、富士講の御師である渡辺囚獄佑(わたなべひとやのすけ)に織田氏への仕官を進めるが、織田氏による武田狩りを恐れて断った。このあと渡辺囚獄佑は徳川家康を頼って浜松に赴く。

     

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  (本栖湖近くにある九一色衆の渡辺囚獄佑の墓)

   本能寺の変と河尻秀隆の最期

  秀隆の甲斐統治が開始から二か月後の6月に京で本能寺の変が起こり、織田信長・信忠父子が明智光秀の謀反で討たれました。そうした中、情勢ががらりと変わり甲斐・信濃で武田旧臣による国人一揆が起こり、信濃の森長可・毛利秀頼は即座に領地を捨てて美濃に撤退しました。残ったのは滝川一益と秀隆でした。

  三河・遠江・駿河三か国の大名徳川家康関東の大名北条氏直が織田氏の領土甲斐国を虎視眈々と狙っており、先に動いたのは家康で、穴山梅雪の死後、河内領にいた穴山家臣衆を家康に従属させました。これに秀隆の知り警戒しました。家康は秀隆と知り合いの本多信俊名倉喜八を甲斐に遣わし、6月10日には躑躅ヶ崎の館にいる秀隆のもとにきて、秀隆に家康の従属か美濃に帰るかを説得しましたが、秀隆は断りました。裏で家康の家臣が甲斐国の領土安堵・武田旧臣の懐柔を知っているためです。14日河尻秀隆は家康の甲斐国横領の意図を知り、国人一揆を説得中の本多信俊を館に呼び寄せて、信俊を惨殺しました。はっきりと家康と断交するためにです。6月18日、信俊の家臣達は説得中の武田氏の旧臣達と示し合わせて、躑躅ヶ崎の館にいた秀隆を襲撃し、逃れた秀隆を岩窪で一揆勢の三井弥一郎によって討たれました。享年56歳。

          河尻秀隆の甲斐統治

   以上述べたように、河尻秀隆の甲斐統治で領民を圧政で苦しめたという事実はなく、秀隆の圧政の証拠を示す資料は『甲斐遺文録』『甲斐国歴代譜』など、むしろ江戸時代の地誌類などに記録されているだけで、同時代史料では全く確認できないものです。また織田信長・信忠父子の武田氏縁故の寺社などのに対する弾圧焼き討ちなどの措置や残酷な武田遺臣の残党狩りなどが、すべて秀隆一人の責任とされたと見られました。他に江戸時代まで、甲府の城下町に河尻秀隆の近習らが居住してたことに由来して川尻町と呼ばれていましたが、1705年(宝永2年)武田信玄を敬愛する側用人柳沢吉保がおこなった甲府城下町改造計画で川尻町は緑町に変わりました。こうしてみると河尻秀隆は甲斐の領民から慕われています。

  最後に河尻秀隆は岩村城主時代に、おこなった城下町形成のための治水設計を紹介します。秀隆は1575年(天正3年)に新しく岩村城の城主になり、城下の治水工事に着手しました。城下町形成のために岩村城下町を城の西方に移すべく、岩村川の左岸から東から西に通じる道路を造り、その道路を中心に左右、それぞれ二本づつ、計四本の用水路を設置しました。この用水を天正疎水といいます。この天正疎水は優れていて、400年経った現在も岩村町の家々の下に流れていて生活用水に使われ、岩村町の発展の基礎になっています。

    

   

   

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