毛利元就の逸話で有名な「三本の矢」のエピソードは果たして史実か?

戦国・織豊時代

        はじめに

 広島県を拠点にしているJリーグ加盟しているサッカーチーム「サンフレッチェ広島」があります。この「サンフレッチェ広島」の意味は、「サン」は日本語の三で、「フレッチェ」はイタリア語の矢です。つまり「三つの矢」と意味です。由来は戦国時代の安芸の戦国大名の毛利元就の教え「三本の矢」からきています。サッカーチームにも使われる「三本の矢」のエピソードは広島市民にも知れ渡ってますが、果たして史実でしょうか?詳しく見てみましょうか?

     毛利元就の「三矢の訓え」のエピソード

「三本の矢」(「三矢の訓え」)のエピソードは、次の内容です。「晩年の毛利元就が病床に伏していたある日、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。

以上が三矢の訓えのエピソードですが、これは史実とは違います。このエピソードの古い文献は江戸時代に編纂された『前橋旧蔵聞書』があり、死に際の毛利元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して毛利隆元や吉川元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。

史実の「三子教訓状」と「三矢の訓え」の違い

 1557年(弘治3年)4月に毛利元就は防長制圧のために出陣して周防・長門両国平定し、吉田郡山城に帰城したが、周防で大内氏の残党が蜂起して、元就は11月18日に鎮圧のために周防に出陣しました。

 1557年(弘治3年)11月25日、富田の勝栄寺に滞在した毛利元就は60歳になっており、三人の息子たちに一致協力して毛利家宗家のために末永く盛り立てるために14か条なる教訓状を書き上げた。

 この教訓状は文字通り、元就の3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、一族協力を説いた倫理的な意味だけでなく、安芸の一国人領主から、五ヶ国を領有する中国地方の領主に成り上がった毛利氏にとって、戦国大名としては独自の「毛利両川体制」とも呼ぶべき新体制をとることを宣言した政治的性格をおびている。それで、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」教訓状の歴史的意義を述べるとすれば、これはただ単に三兄弟の結束を説いたというものではなく、毛利氏の「国家」の核となる毛利家を保つために家督の毛利隆元の主君としての地位を明確にしたものであり、それによって兄弟・一族のなかでの内紛を避け、いわゆる下剋上を禁止すると宣言したものである。

 よく知られる三矢の訓え(三本の矢)は三子教訓状と違って単に三兄弟の結束を説いており、事実と違って元就の臨終の時に枕元の三人の息子を呼んでいた史実は三兄弟のうち毛利隆元は早死にしており。三矢の訓え(三本の矢)実際の元就の臨終の際にいたのは三男の小早川隆景と孫の毛利輝元でした。これらから推測すると、江戸時代に編纂された『前橋旧蔵聞書』の話が出所で、明治時代に『イソップ童話』の話に影響されて今の話になっと思われる。

     (毛利元就が三子の教訓を書いた周防富田の勝栄寺)

  三子の教訓状の内容

第一条

  • 何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条

  • 元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条

  • 改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条

  • 隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条

  • この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原氏や桂氏と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条

  • この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条

  • 亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条

  • 五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条

  • 今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元俱などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条

  • 私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条

  • 私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条

  • 十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条

  • 私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。オ折敷畑合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条

  • これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。

  三矢の訓えが与えた後世の影響

毛利元就の三矢の訓え(三本の矢)が後世に影響を与えたものは、冒頭に話したサッカーJリーグに加盟しているサンフレッチェ広島のチーム名、また広島県安芸郡海田市駐屯地に司令部に置いている陸上自衛隊第13旅団(旧13師団)は「三矢の訓え」の故事にならって3本の矢羽根を部隊章のモチーフとしている。

政治では第二次安倍晋三内閣の経済政策、通称アベノミクスで、安倍首相は「三本の矢」第1の矢が金融政策・第2の矢が財政政策・第3の矢が成長戦略と公示している。「三本の矢」の由来は、安倍首相が山口県の出身で毛利元就と所縁があるから、自民党幹事長中川秀直が毛利元就の「三本の矢」の故事から命名した。

 

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