映画『室町無頼』に登場する応仁の乱で活躍した足軽の骨皮道賢とは何者か?

鎌倉・南北朝・室町時代

   はじめに

 垣根涼介の小説『室町無頼』は室町時代の1462年(寛正3年)に起こった寛正の土一揆首領蓮田兵衛を主人公した作品で、今年の1月には映画化されました。映画では主役の蓮田兵衛(演じたのは俳優の大泉洋さんで)と土一揆を討伐する幕府軍には骨皮道賢(演じたのは堤真一さんで)とは悪友で、二人の対決する運命ですけど。対決が目玉です。この映画に登場した骨皮道賢とは何者だったのか、後の応仁の乱でも活躍する人物で、謎のところもありますが、調べてみました。

 骨皮道賢の生涯応仁の乱で活躍

骨皮道賢の生年月日は不詳で、室町幕府の侍所所司代多賀高忠に仕えて目付の頭目になり、主に盗賊の追捕していた。

 1467年(応仁元年)足利将軍家の跡目問題から、幕府内でも東軍と西軍に分かれて、やがて全国まで広まった乱(応仁の乱)が勃発しました。総大将細川勝元率いる東軍に所司代多賀高忠も加わっていた。目付の骨皮道賢にも勝元から金品で勧誘されました。道賢は東軍に属して、足軽大将になって活躍した。骨皮道賢は伏見稲荷の稲荷山にある稲荷社を拠点に300人程の配下を指揮して、西軍の山名方の後方攪乱したり、西軍の物資を奪ったりする活動した。

 (映画『室町無頼」の骨皮道賢)

 稲荷山の戦いと骨皮道賢の最後

 1468年(応仁2年)3月15日、多賀豊後守高忠の従者で細川氏の与党・骨皮左衛門尉道賢を首領とする軍勢が、比較的新しく当社祠官家に加わったと見られる荷田氏の羽倉出羽守と示し合せて、伏見・木幡・藤森・三楢・深草・淀・竹田・鳥羽等を眼下に見下ろすことが出来る要害の地ともいうべき稲荷山に陣を設け、山名宗全ら西軍の糧道を絶ったのです。西軍の総大将山名宗全(持豊)は東軍方の道賢のゲリラ活動に業をにごして、ついに 1468年(応仁2年)3月21日に山名宗全は斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘ら西軍を率いて稲荷山攻めた。

 稲荷山の骨皮道賢の陣所は西軍の大軍に包囲された。道賢は女装して西軍の包囲網を抜け出して、山科方面に逃げようとしたが、西軍の朝倉孝景の配下の兵に見つかり、討たれしまった。骨皮道賢の首は東寺の門前に晒された。(稲荷山の戦い)

      (骨皮道賢が拠点にした稲荷山にある稲荷神社)

骨皮道賢の記録が載る禅僧の日記での名前の初見は、1468年3月15日(4月7日)条からであり、3月21日(4月13日)までの6日間の活躍しか記述されていない。その最期を「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」と歌で皮肉られた。

なお、骨皮道賢の出身は苗字の骨皮から皮革業を営んでいたという説もあるが、または「骨と皮ばかりの痩せた者」という外観からきているかもしれず、どちらともいえないとされている。

    骨川道賢と足軽の意義

 骨川道賢の活躍は、僅か一週間で幕を下ろした。この道賢の活躍は新時代の到来を告げていた。「足軽」は足疾つまり足が速い人々という語源で、南北朝・室町時代の上級武士たちは騎馬に乗って戦いますが、馬も持ってない領地を持たない者が「足軽」で戦いがあるたびに動員され、それに報酬は略奪次第という、保守的な階層からは「足軽」は悪魔に見えた。例えば「足軽」が戦場で名のある武士を討ちとっても、後世の史料には記録が残らないのが常でした。室町時代の「足軽」特徴は盗賊や「あぶれもの」中心で構成されています。そこが、後の戦国時代の「足軽」とは違っています。戦国時代の「足軽」は原則的に領地にいる百姓を徴兵しますから。史料に記録されている「足軽」である骨皮道賢は記念すべき人物でした。

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