太平洋戦争で米兵に恐れられた不死身の日本兵船坂弘が、戦後に始めた意外なビジネスとは

明治・大正・昭和時代

  漫画『ゴールデンカムイ』を読んでいたら、主人公の杉元が「不死身の杉元」と呼ばれていました。なぜ彼が不死身と呼ばれる原因は、日露戦争で鬼神のように戦って、瀕死の重傷を負っても生き延びたからです。これと似た人が太平洋戦争中にもいること思い出しました。その人物は船坂弘です。彼はアンガウル島の戦いで、鬼神のように戦って、負傷しながらも生き延びて米兵を怖がらせ。「不死身の日本兵」でした。次からは船坂弘について話します。

 船坂弘の生い立ちと陸軍への入隊

 船坂弘は1920年(大正9年)10月30日、栃木県西都賀郡西方村の農家の3男として生まれました。幼少期からきかん坊で、近所のガキ大将であった。小学校と尋常高等小学校を終えて公民学校を卒業すると、さらに早稲田中学講義録で独学し、専門学校入学者検定試験に合格する。1939年(昭和14年)に満蒙学校専門部へ入学して3年間学びまし。

  1941年(昭和16年)3月に宇都宮第36部隊へ現役で入隊しました。入隊直後に満州へ渡り斉斉哈爾第(チチハル)第219部隊に配属される。斉斉哈爾第219部隊は、宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想敵のソ連軍侵攻に備えてノモハン付近・アルシャン・ノンジャン・ハイラル一帯の国境警備隊として活躍しました。船坂弘は第59連隊第1大隊第1中隊(通称石原中隊)擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時は15人を率いる擲弾筒分隊長として指揮する。

 彼は当時から剣道と銃剣術の有段者で、特に銃剣術に秀でた。チチハルの営庭で訓練中に陸軍戸山学校出身の准尉から、「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と保証される腕前だった。舩坂は擲弾筒分隊長であったが、中隊随一の名小銃手として入隊以来射撃で賞状と感状を3ました。ました。斉斉哈爾第219部隊で「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と専ら有名であった。

    アンガウル島の戦い

 太平洋戦争の況が悪化してきた1944年(昭和19年)3月1日に第59連隊へ南方作戦動員令が下命されました。4月28日にアンガウル島へ到着する。南方動員令の下命時に舩坂は除隊の目前であったが、大隊主力と共にアンガウル島に上陸する。舩坂弘は23歳の時で、中隊では一番の模範兵と目されて部下から人望も厚かった。

  アンガウル島の戦い太平洋戦争のマリアナ・パラオ諸島戦没における最後の戦闘である。船坂弘は擲弾筒と臼砲を用いて、米兵200人を殺傷して、多大な戦果をあげました。

  米軍の爆撃・艦砲射撃が開始された6日後の1944年9月17日に戦艦1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、そして5隻以上の駆逐艦からの艦砲射撃の支援の下、午前8時半過ぎに米陸軍第81歩兵師団がアンガウル島の北東及び南西の海岸に上陸してきた。敷設された地雷による被害や日本軍による水際作戦によって、米軍は上陸当初ある程度の被害を受けたが、上陸2地点から前進し同日夕方には内陸へ進出していた。アンガウル地区隊長である第1大隊長後藤丑雄少佐は守備隊残存兵の再編を図り、あらゆる火砲を動員して夜襲を決行、翌9月18日明け方には米軍を一旦は海岸近くまで押し戻した。夜が明けると米軍はM4中戦車やLVTを前面にして、艦載機による銃爆撃も加えて反撃したため、午前10時頃には日本軍攻撃部隊は全滅した。

アンガウル島での船坂弘の奮戦

 舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城。ゲリラ戦へと移行した。

  3日目に舩坂弘は米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置されたのちに、ようやく軍医が訪れるも、船坂の傷口を一目観て自決用の手榴弾を手渡して立ち去る。瀕死の重傷を負いながらも舩坂は包帯の代わりに日章旗で足を縛り止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は後年「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べる。

  舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒し、米兵から鹵獲(ろかく)した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続ける。舩坂の姿を見た部隊員らは不死身の分隊長と形容した。

  食料も水もない戦場の戦いは日本兵を徐々に追い詰め、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相となる。船坂も腹部盲貫銃創の重傷で這うことのみが可能で、傷口に蛆虫(ウジ虫)が涌くありさまを見て、蛆に食われて死ぬくらいならもはやこれまで、と思い自決を図るも手榴弾は不発する。舩坂弘はしばらく茫然として自決未遂の現実に「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、深い絶望感を味わう。戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片で、幽鬼か亡霊の如き風貌であった。

  舩坂弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかった。米軍の動揺を尻目に船坂弘は司令部目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、左頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍の軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。当初、船坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂弘の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈る。

  捕虜収容所と船坂弘の日本帰国

  その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂ペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリュー捕虜収容所に身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。さらに、舩坂弘は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗した。

 船坂弘の身柄はグアム島・ハワイ島・サンフランシスコ・テキサスの捕虜収容所を1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦まで転々と移動した。翌1946年(昭和21年)に日本に帰国することができた。

 故郷では、当然船坂弘が戦死したものと思われており、(アンガウル島守備隊は1944年(昭和19年)10月19日に玉砕し、12月30日に実家へ戦死公報が12月30日に届く。舩坂は1946年に帰国するまでの1年3か月の間は戸籍上で死亡扱いされる。)舩坂は帰郷後真っ先に「舩坂弘之墓」と記された墓標を抜く。しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされる。ボロボロの軍衣で生家に戻り、船坂は先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌すると、真新しい位牌に「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており驚いた。

    大盛堂書店を創業する。

 復員してきた船坂弘は、太平洋戦争の戦後復興の中、戦争での強烈な体験と船坂がこの眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることにあるとの思いから、書店経営を思い立ちました。舩坂弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、これは日本で初めての試みとなる、建物を全てを、まるでデパートのように本屋に使用しました。これが「本のデパート大盛堂書店」です。

   (現在の大盛堂書店)

  船坂弘と三島由紀夫

 船坂弘の剣道を得意としており、太平洋戦争戦後、舩坂弘は剣道教士六段まで昇段した。また船坂弘は剣道五段の作家の三島由紀夫とは剣道を通じて親交を持っおり、船坂弘の自叙伝である『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』の序文は三島由紀夫が寄せている。

1970年(昭和45年)11月25日の三島由紀夫自決の際、介錯に使われた三島自慢の愛刀関の孫六(後代)は船坂弘が贈ったものであった。この経緯を自著『関ノ孫六』に詳しく記している。

舩坂弘は当時80歳で範士十段の持田盛二と稽古する機会を得て、初めて持田に挑んだが、太刀打ちできなかった。この体験を自著『昭和の剣聖・持田盛二』で、「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた……」と述べる。

 慰霊碑を建立と船坂弘の死

 船坂弘『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー島・ガドブス島・コロール島・グアム島等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と、刻み込まれている。慰霊碑を建立後、今までの著作や後に執筆した本から更なる印税を得るも、「世界の人々に役立ててもらいたい」との考えから、自分では使うことなく、全額を国際赤十字社に寄付している。

 船坂弘は書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かさなかった。後年に遺族を募り慰霊団を組織し、現地の墓参へ引率し、パラオ諸島の原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力する。長年の間だ戦没者の調査と、その遺族らへ連絡など、精力的に活動して人生を捧げた。舩坂弘を知る人たちは「生きている英霊」と称して業績を称揚している。

2006年(平成18年)2月11日午前8時、船坂弘は腎不全のためこの世去りました。去年は85歳没。墓所は港区の長谷寺にある。

 (港区長谷寺の墓地にある船坂弘の墓)

    船坂弘の書籍

  • 『英霊の絶叫- 玉砕島アンガウル』(文藝春秋、1966年12月)
    • 改題『英霊の絶叫 – 玉砕島アンガウル戦記』(光人社NF文庫、1996年、新装版2015年、再訂版2022年12月)
  • 『サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦』(毎日新聞社、1967年8月)
  • 『玉砕 暗号電文で綴るパラオの死闘』(読売新聞社、1968年8月)
    • 改題『陸軍“離脱部隊”の死闘 汚名軍人たちの隠匿された真実』(光人社NF文庫、2024年)
  • 『硫黄島ーああ栗林兵団』(講談社、1968年8月)
  • 『殉国の炎』(潮出版社、1971年3月)
  • 『聖書と刀-太平洋の友情』(文藝春秋、1971年10月)
    • 『聖書と刀 – 玉砕島に生まれた人道の奇蹟』光人社NF文庫、2020年
  • 『関ノ孫六-三島由紀夫 その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1972年)
  • 『昭和の剣聖・持田盛二』(講談社、1975年)
  • 『玉砕戦の孤島に大義はなかった』(光人社、1977年)
    • 改題『秘話パラオ戦記 – 玉砕戦の孤島に大義はなかった』(光人社NF文庫、2000年、新装版2016年)
  • 『石の勲章』(北洋社、1978年8月)
  • 『滅尽争のなかの戦士たち 玉砕島パラオ・アンガウル』(講談社、1979年5月)
  • 『血風 二百三高地』叢文社、1980年8月)
    • 『血風二百三高地 – 日露戦争の命運を分けた第三軍の戦い』(光人社NF文庫、2016年)
  • 『血風ペリリュー島』(叢文社、1981年7月)
    • 改題『ぺリリュー島玉砕戦 – 南海の小島七十日の血戦』(光人社NF文庫、2000年、新装版2010年、再訂版2024年8月

   まとめ

 船坂弘は戦時中には「不死身の日本兵」と呼ばれていて、そのため死なない日本兵からサイボーク兵士ではないかと都市伝説にもなっています。戦後一転して、船坂弘は書店経営しており、船坂が創業した「大盛堂書店」はあとに続く「デパート型本屋」(ジュンク堂、紀伊国屋書店、旭屋書店)などの先駆けになりました。現在の「大盛堂書店」は渋谷のセンター街入口に移転したけど、前は渋谷の西武デパートの前にありました。余談ですが、当時筆者が小学生の時、家族で渋谷に行くと、よく大盛堂書店に行ってました。本のデパートにワクワクした記憶があります。

  冒頭で話した漫画『ゴールデンカムイ』の作者の野田サトル氏は船坂弘のことを知っていて、船坂弘をモデルとして「不死身の杉元」というキャラクターを作成したかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました