はじめに
初めに、皆様は伊達政宗と聞けば、まず。仙台を発展させた戦国大名の独眼竜政宗の名が出てきますよね。独眼竜政宗はNHKの大河ドラマの主人公になりました。しかし、これから話す伊達政宗は独眼竜政宗ではなく、室町時代に活躍した伊達家8代目の伊達政宗です。つまり伊達政宗という人物は二人いました。室町時代の伊達政宗は独眼竜政宗ほど有名ではないですけど。伊達氏を発展させた中興の人物でした。
伊達政宗の乱への経緯
1391年(明徳2年)3代将軍足利義満は鎌倉府の足利氏満と和解して、陸奥・出羽の両国は鎌倉府の支配に管轄に入りました。それにより吉良氏・畠山氏・斯波氏・石搭氏ら奥州四管領は廃止になりました。
1398年(応永5年)将軍義満は陸奥の国人大崎詮持を奥州探題に任じ奥州への影響力を強めました。翌1399年(応永6年)鎌倉府は室町幕府に対抗し、奥州支配強化のために鎌倉公方足利満兼(氏満の急死により3代目鎌倉公方の就任)の命より、弟の足利満直を篠川御所、足利満貞を稲付御所として下向させ、白河に奥羽諸侯を集め両公に従い領土割譲を要求した。また篠川・稲付御所は陸奥・出羽の国人や鶴岡八幡宮の修理費用を負担・鎌倉への出仕・国衙への年貢の負担を要求してきた。
伊達政宗の乱
篠川・稲付御所は伊達大善太夫政宗(米沢伊達氏9代目)に領土割譲は求めてきた。1400年(応永7年)3月に伊達政宗は同じく反感を持つ大崎氏・斯波氏と同盟して無断で帰国した。鎌倉府では伊達氏らの反抗に対し、白河結城氏の結城満朝に命じて鎌倉の瀬ヶ崎で大崎詮持を誅殺。伊達政宗は結城満朝の追討から逃れて米沢に逃れた。
伊達政宗は一族の長倉入道と図り、赤館に伊達政宗、長倉城に長倉入道に籠り、鎌倉府に反乱した。鎌倉公方足利満兼は伊達政宗の反乱に対し新田岩松氏の岩松満純に伊達政宗の討伐を命じた。岩松満純率いる討伐軍は大軍を以って赤館・長倉館を攻めたが大敗した。

1402年(応永9年)5月には鎌倉府では5月、関東管領上杉氏憲を総大将に白河結城氏の結城満朝・稲付公方の足利満貞らが合流して28万の大軍で伊達領に向かって進軍した。氏憲は先陣として僅か13歳の勅使河原兼貞(てしがわらかねさだ)を大将に伊達領に向かわせ、長倉入道の籠る赤館攻め寄せたが、長倉入道の軍勢は手強く、勅使河原兼貞勢は一騎残らず討ち取られた。大将の兼貞も捕らえられた、伊達政宗の面前に引き出されてれて。
勅使河原兼貞の若さに驚いた政宗は、
勝利の興奮もあって次の狂歌を歌った。
『二度の弓箭の花は是かとよ やちよの橘千世の梅かえ』
政宗にとって二度目の討伐軍大将が、このような小童かと
大笑いしたその情景を容易に思い浮かべられる。
討伐軍の総大将上杉氏憲のもとに勅使河原兼貞の敗北を知って、氏憲の軍勢率い北上その上で伊達氏を北方から牽制すべく、今だ去就が定まらない葛西氏、和賀氏に対して出兵を促したのである。奥州探題・大崎氏に対抗心を燃やす葛西氏は、その重い腰をようやく上げ、西に隣接する大崎領へ侵攻を開始した。それに応じ和賀氏も出陣したのである。

上杉氏憲は本軍を率いて伊達政宗の籠る赤館を攻めた。9月に伊達政宗は降伏した。
伊達政宗の乱の結果
1402年に出羽の最上直家・寒河江元時・左沢氏・白鳥氏などは鎌倉府の要請で伊達氏の苅田城を攻めた。
将軍足利義満は伊達政宗を支援し、鎌倉府と対立。伊達政宗の妻の輪王寺殿は将軍義満の生母の紀良子の妹で、つまり伊達政宗と将軍足利義満は縁戚であったので密に連絡していた。こうした鎌倉府を無視し室町幕府と直接の主従関係を結ぶ動きは伊達氏や東国全体に広がり、後に京都扶持衆へと発展する。白河結城文書によると独立行動を抑制しようと鎌倉府では1404年(応永11年)7月奥羽諸侯に両公方を推戴することを連署させている。しかし、伊達、斯波、畠山ら大名はこれに応じず伊達持宗の乱・上杉禅秀の乱など鎌倉府への反乱は加速して行くこになった。
伊達大善太夫政宗と独眼竜政宗との関係
こうして伊達政宗の活躍は伊達氏中興の祖と呼ばれ、後に伊達氏16代当主の伊達輝宗の嫡男の梵天丸が1577年(天正5年)11月15日に元服を迎えると伊達藤次郎政宗と名付けられる。諱の「政宗」は父輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主伊達大善太夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。梵天丸はこの諱を固辞したが、父輝宗より強いて命ぜられた。史料上にも正宗と書かれたものがいくつかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。
伊達政宗の死
伊達政宗は1405年(応永12年)に本拠の出羽高畠城で没した。一説には伊達政宗の死去は応永13年後半から応永14年3月ころに没したという研究もある。)

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