はじめに
神奈川県横浜市金沢区朝比奈に上総介という五輪塔があります。この五輪塔の人物は上総広常です。上総広常と言えば、2022年(令和4年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の佐藤浩市さんが演じてました。この上総広常の墓は朝比奈切通しの入口付近にあり、鎌倉の入口にあたります。上総広常は、現在の千葉県上総一ノ宮付近の豪族です。なぜ、鎌倉でなく、この場所に墓があるのでしょうか?その謎をひ紐といてみましょう。
平治の乱・家督争い
上総広常は房総半島を拠点とする上総権介の平常澄の八男で、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。1156年(保元元年)保元の乱では義朝の郎党して戦った。1159年(平治元年)の平治の乱で、義朝の嫡男源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家方の探索をくぐって戦線離脱した。そのあと、広常は領国にもどる。義朝滅亡後は、平氏政権に従ったが、
義朝が敗れた後は平家に従ったが、父平常澄が亡くなると、嫡男である上総広常と庶兄の伊西常景と印東常茂との間で上総氏の後継者を巡る内まし7ました。この兄弟間の抗争は、源頼朝の挙兵の頃まで続いている。1179年(治承3年)11月、平家方の有力伊藤忠清は、解官された藤原為保に代わり上総介となり、従五位下に叙せられた。その際、「坂東八ヵ国の侍の別当」(『平家物語』)として東国の武士団を統率する権限も与えられたとされる。上総国の国衙を掌握した伊藤忠清は、上総広常に対して恩を忘れた強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した広常の子上総能常を拘禁する。忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。
治承・寿永内乱と上総広常
源頼朝の挙兵時の上総広常(および又従兄弟の千葉常胤)参陣・挙兵は、行き詰まった在地状況を打開するための主体的な行動であり、平家との関係を絶ち切り、実力によって両総平氏の族長としての地位を確立した。
1180年(治承4年)8月に源頼朝は打倒平氏に対し挙兵。9月の石橋山の戦いに敗れた頼朝は、安房国で再挙を図ると、上総広常は隅田川辺に布陣する源頼朝のもとに2万騎を率いて参上した。頼朝は大軍を率いた広常の参向を喜ぶどころか、逆に遅参を咎めたので、その器量に感じて頼朝に和順したとされる。
上総広常が率いた軍勢『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である。このことから9月19日、隅田川辺での頼朝への参向、これは広常による平家方勢力の掃討を意味しているのであり。源頼朝への参向は上総ないし上総国府と考えるのが妥当である。広常が初めから頼朝側であったからこそ、頼朝が何事もなく安房から上総を経由して下総に向かえたとし、広常が率いたとされる大軍も上総国内から平家側勢力を一掃したことによって動員が可能になったものとなった。

1180年11月の富士川の戦いでは、平維盛を大将とする頼朝追討軍に従事していた兄の印東常茂は上総広常によって討ち取られた。これにより房総平氏は上総広常の許で統一されることとなった。
富士川の戦いでの勝利後は、源頼朝は平家追撃のため上洛を目指してた。上総広常は三浦氏らと共に頼朝の京に上洛を阻止し、東国経営のため常陸の佐竹氏討伐を主張した。
源頼朝は佐竹氏討伐のため常陸に出陣した。上総広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に籠った。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで上総広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の佐竹秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)
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上総広常誅殺とその後上総氏
1183年(寿永2年)12月、上総広常に謀反の企てがあるとの噂があった。頼朝は上総広常威勢を警戒して、広常父子の誅殺を決めた。頼朝の命を受けた侍所司の梶原景時に鎌倉の御所内で誅殺された。梶原景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤を飛び越えて広常の首を掻い切ったとされる(『愚管抄』)。広常の嫡男上総能常も同じく討たれ、上総氏は所領を没収され千葉氏・三浦氏などに分配された。1184年(寿永3年)正月、上総広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に上総広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したとされる。


上総広常の謀反の真相
①1184年(寿永3年)正月、上総広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に上総広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したとされる。「尤も、願文発見の逸話も広常の粗暴な振舞いの逸話と同様鎌倉時代後期編纂の『吾妻鏡』にしか見られず、この話自体が信憑性がないか、不明のどちらかである。上総広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。
②源頼朝に寿永二年十月宣旨が下って、鎌倉政権が国家的に承認されるに及び、元来は源頼朝にとっての最大の軍事基盤であった上総広常がかえって、その権力確立の妨害者となっていたことが謀殺に繋がったみかたもある。実際、鎌倉政権内部では、東国独立論を主張する上総広常ら有力関東武士と、頼朝を中心とする朝廷との協調路線派との矛盾が潜在しており、前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。「寿永二年十月宣旨」により鎌倉政権は対朝廷協調路線の度合いを強め、宣旨直後に東国独立論を強く主張していた上総広常の誅殺につながった見方もある。
➂また、上総広常は木曾義仲と同調しようとした。以仁王の令旨とともに彼の遺児である北陸宮を擁しようとした点では「反中央政府」「反朝廷」ではなかったが、北陸宮を擁する木曾義仲と同意見で、広常が義仲に接近しようとしたことが、逆に頼朝に警戒され、頼朝と義仲の関係が破綻するとともに「親義仲」とみなされた上総広常が誅殺に至ったとする見方もある。
参考文献
●『現代語訳吾妻鏡』(五味文彦・本郷和人)(吉川弘文館)
●『愚管抄』(現代語訳)(講談社学術文庫
●川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』(講談社選書メチエ、1996年)
●「平家打倒に起ちあがった上総広常」(野口実)(『千葉史学』20号、1992年)
● 上横手雅敬『鎌倉時代』(吉川弘文館)
●上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
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