はじめに
鎌倉で竹林で有名な報国寺があります。報国寺には外国人らを含め多くの観光客も訪れています。大体の観光客は、竹林のある庭園に行きますが。その庭園の入り口の近くに大きな五輪塔があります。この五輪塔の主は上杉氏憲(上杉禅秀)と伝えられています。しかし、観光客は五輪塔は素通りです。この上杉禅秀は室町時代に起きた鎌倉府内で反乱起こした首謀者ですが、この上杉禅秀の乱を知っている人は僅かですが、なぜ上杉禅秀の乱が起きたのでしょうか?
上杉禅秀の乱の経緯
鎌倉府は南北朝時代に足利尊氏が関東統治のために設置した機関で、初代鎌倉公方は尊氏の子は足利基氏で、関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。
1409年(応永16年)に3代鎌倉公方足利満兼が死去し、満兼の子の足利持氏が4代目公方となった。当初は山内上杉氏の上杉憲定が関東管領の地位にあったが、1411年(応永18年)に憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉氏の上杉氏憲が関東管領に就任した。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲と接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとした。
1415年(応永22年)4月25日の評定で氏憲と持氏が対立すると、5月2日に氏憲は関東管領を更迭され、5月18日には後任の関東管領として山内上杉家の上杉憲基(上杉憲定の子)が管領職についた。
上杉禅秀の乱
1416年(応永23年)上杉氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、氏憲の婿にあたる岩松満純・那須資之・千葉兼胤・長尾氏春・大掾満幹・山入与義・小田持家・武田信満・結城満・蘆名盛政や地方の国衆も加わり、鎌倉公方足利持氏に対し反乱した。
1416年(応永23年)10月2日、戌の刻、足利満隆が御所近くの宝寿院に入り挙兵。上杉氏憲(禅秀)と共に鎌倉公方足利持氏・上杉憲基らの拘束に向かう。化粧坂では持氏方の三浦高明が守備に就くなどしていたが、鎌倉は混乱しその隙に持氏らは家臣に連れられて脱出していた(『鎌倉大草紙』)。その後、上杉氏憲と足利満隆は合流した諸氏の兵と共に鎌倉を制圧下に置いた。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられているが、氏憲らは、鎌倉公方持氏を支持する諸将が鎌倉に不在の隙をついて挙兵をしたとみられている。
駿河の今川範政から京都の幕府に一報が伝えられたのは10月13日で、当初足利持氏・上杉憲基が殺害されたという誤報を含んでいた。たまたま将軍足利義持が因幡堂参詣のために不在であったために幕府内は騒然となった。幕府に詰めた諸大名は会合して情報収集に努めることにした。夜に義持が帰還するのを待って対応を決めることにした。その後、持氏・憲基らは無事で、鎌倉を脱出した持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めていることを知ると、
義持は帰還すると、諸大名達と共に会議を開き、義持は持氏の救援を渋っていたが、義持の叔父足利満詮が義持が救援をためらっていることに喝を入れて、早急に持氏救援を促した。(『看聞日記』同年10月13・29日条)
幕府は越後守護上杉房方・駿河守護今川範政・信濃守護小笠原政康に出兵を命じた・佐竹氏・宇都宮氏の討伐軍が足利満隆・上杉氏憲討伐に向かった。氏憲らは持氏を討つため駿河に軍勢を送るが、逆に今川範政の軍勢に敗れ、更に上杉氏らに押された江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌1417年(応永24年)元日、上杉房方・小笠原政康が八王子方面から鎌倉に迫り、それに呼応した江戸氏・豊島氏を、氏憲が世谷原で迎え討ったが、その間隙をぬって、箱根峠を越えて国府津に進出した今川範政率いる幕府軍の存在を知り、慌てて鎌倉に帰還したが、(世谷原の戦い)

1月10日に今川範政勢は鎌倉に入り、氏憲らは追い詰められ鎌倉の雪ノ下に落ちていき、上杉氏憲・足利満隆・持仲は自刃した。こうして、上杉禅秀の死により犬懸上杉家は関東での勢力は衰退することになる。(ただし、上杉氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けている)。以後関東管領職は山内上杉家が世襲してくことになった。

上杉禅秀の乱の波紋
足利義嗣出奔と死
足利義嗣(足利義満の子、将軍義持の弟)は鎌倉の上杉氏憲と足利満隆と組んで、将軍義持を暗殺して、義嗣自身が将軍に就任しようと野心があった。1416年(応永23年)10月29日の深夜、京都で義嗣は高雄に出奔し、出家した。おりから鎌倉府において前関東管領の上杉氏憲が鎌倉公方足利持氏を襲撃する事件が起きた。まさに幕府が持氏を支持することを決めたのがこの日であった。上杉氏憲は義嗣の妾の父であり、義嗣の行動は上杉氏憲との連携と見られた。
幕府では義嗣の逮捕を踏み切り侍所に命じた。侍所は直ちに義嗣を逮捕して仁和寺に幽閉した。次いで相国寺林光院へ移した。管領細川満元は義嗣の糾問に反対したが、前管領の畠山満家が義嗣の切腹を求めて、両者は対立した。11月下旬には、満元と斯波義重・赤松義則らが事件に関与していた疑いが持ち上がっている。近臣の山科教孝・日野持光は加賀に流罪となり、途中で殺害された。
1418年(応永25年)1月24日、富樫満成は将軍義持の命を受け、相国寺林光院に幽閉されている義嗣を殺害した。あるいは義嗣は自刃させられた。享年25歳。義嗣の死については畠山満家と満成が共謀していた可能性があり、管領は細川満元は、しばらく出仕を拒否している。
富樫満成の粛清
1418年6月には富樫満成が、畠山満家の弟畠山満慶・山名時煕・土岐康政らが義嗣と共謀していたと訴え出た。山名時煕は出仕を止められ、土岐康政の子土岐持頼は守護を解任されている。11月には逆に義嗣の愛妾林歌局が、「満成が義嗣に謀反を勧め、発覚しそうになったため義嗣の謀反を訴えた」と義持に直訴した。満成は高野山に出奔した。1419年(応永26年)2月、将軍義持は畠山満家に富樫満成の討伐を命じた。富樫満成は大和の天河付近に潜んでいたが、幕府より宥免するという御教書を信じて、河内国へ出てきたところを満家の手勢に討たれた。
永享元年(1429年)9月17日に従一位を追贈され[14]、9月29日には新大倉宮の神号を贈られた[19]。
武田信満・岩松満純討伐
武田信満は上杉氏憲の反乱に加勢した。『鎌倉大草紙』によれば、上杉禅秀の乱は10月2日に足利満隆・持仲の兵が鎌倉の御所を攻め、持氏は駿河守護の今川範政を頼り駿河大森へ逃れるが、「甲州の敵程近し」として範政を頼ったという。その後、将軍義持が持氏を支持し、禅秀討伐の御教書を発し、今川範政や越後守護上杉房方らが鎌倉へ出兵すると、翌応永24年正月10日に禅秀らは滅亡し、10月17日に持氏は鎌倉へ帰還した。『鎌倉大草紙』によれば上杉禅秀の乱の平定後に持氏は上杉禅秀に加勢した勢力の討伐を命じた。1417年(応永24年)2月6日に武田信満は鎌倉府側の上杉憲宗の討伐軍の攻勢を受けて都留郡十賊山(天目山)に落ちていき、そこを死に場所にして自刃した。
それから165年後の1582年に武田信満の子孫にあたる武田勝頼が、信満と同じ天目山に死に場所を求め逃げてきたが、麓の田野で織田軍に追いつかれ自刃した。
『武田源氏一統系図』によれば、禅秀に嫁いだ信春息女も比定地未詳の「藤渡の川辺」で自害したとしている。武田信満の墓所は甲州市大和町木賊の棲雲寺。

信満の法名は『鎌倉大草紙』では「明庵道光」とし、棲雲寺の牌子では「棲雲寺殿明庵公大居士」、甲府市の長松寺の牌子や『武田源氏一統系図』では「長松寺殿」としている。
信満の滅亡により甲斐は守護不在状況に陥り、鎌倉府と室町将軍の争いと連動して国人による騒乱に悩まされることとなった。
岩松満純は上杉禅秀の乱で舅の上杉禅秀に味方して鎌倉公方持氏を追放に功績を挙げた。この際に岩松満純は義宗の落胤として新田姓を自称したという。
しかし、持氏が幕府の援助を受けて反攻してくると、満純は新田荘に敗走した。隣の佐貫荘の国人領主舞木持広が持氏に味方して満純の討伐軍を挙げ、武蔵入間川の戦いにで両者が激突して、満純は敗れて捕縛された。岩松満純は1417年(応永24年)に鎌倉龍口で斬首された。
この岩松満純の動きに父の満国は同調せず静観し、満純の死後、孫の岩松持国(満純の弟満春の子)に家督を譲り岩松家を継がせた。廃嫡されたもう1人の孫の家純(満純の遺児)は出家した。後に岩松家純は祖父の死後に6代将軍足利義教の後押しにより復権し勢力を持ち、岩松家は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂した。
まとめ
上杉禅秀の乱で 室町幕府内では、弟の足利義嗣が上杉禅秀と組んで将軍義持の地位を脅かそうとしたし、上杉禅秀の乱は幕府内でも支配体制を揺るがす事態になり、幕府は、そのうえで上杉禅秀が南朝と組んだら、全国規模に乱が広まることを恐れて、本心でないが鎌倉府に幕府の救援軍を送ることになった。また公方足利持氏は幕府の混乱に乗じて関東・奥州各地に発生した武装蜂起に対して自己の政権の権限と基盤の強化に乗り出して幕府の権威を否定する動きを以前から見せていたからである。幕府から追討を受けている筈の上杉氏憲の遺児が、実は幕府に保護されていたという事実は、足利持氏が幕府に対して反抗する事態を考慮したからである。鎌倉府と敵対的でありながら室町幕府の意向を受けて禅秀討伐に加わった下野国の宇都宮持綱が乱後に上総国の守護に任じられたり、足利氏ゆかりの足利荘が鎌倉府から室町幕府の直接管理に移されたりしたのも、持氏に対する牽制であったと考えられている。以後鎌倉府と室町幕府は対立関係になる。
参考文献
『鎌倉大草紙』(大日本史料総合データベース・東京大学史料編纂所)
『人物業書 足利義持』(伊藤嘉良著)(吉川弘文館)
『駿河今川氏十代』(小和田哲男著)(戎光祥出版)
『図説鎌倉府』(杉山一弥著)(戎光祥出版)
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