はじめに
香川県高松市に旅行した折、源平合戦で有名な屋島古戦場を訪問しました。古戦場を一通り見て回って、最後に義経四天王の一人佐藤継信の墓を訪れました。継信は奥州平泉の藤原秀衡の家臣で、義経の鎌倉下向に付き従いました。屋島の戦いで主君義経を庇って戦死しました。そのため、古戦場に佐藤継信の墓があります。墓の近くに古戦場マップがあり、なにげにマップ見たら佐藤継信の墓が、もう一か所あるではないか。なぜ佐藤継信の墓があるでんしょうか?その理由を紐解いて見ましょう?

源義経と佐藤継信
佐藤継信は奥州平泉を本拠とする藤原秀衡の家臣佐藤基治の嫡男で、弟に佐藤忠信がいます。生まれは久安6年(1150年)とも言われています。
平治の乱後、奥州平泉に京から源義経が奥州藤原氏を頼って落ち延びてきました。その数年後の1180年(治承4年)関東で源頼朝が挙兵すると、義経も呼応して平泉から兄頼朝にもとに向かう際、秀衡から継信・忠信兄弟も義経の家臣と随行することを命令しました。
源平合戦と佐藤継信
佐藤継信兄弟は義経の忠臣として、木曾義仲討伐や一の谷の戦いなどに参陣。義経が平家の拠点屋島を攻める。この屋島での戦いで継信は義経を庇って討死しました。
『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日の条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、1人の僧侶を招き千株松の根元に葬った。また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「大夫黒」を僧侶に与えた。『吾妻鏡』は「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている。
『源平盛衰記』によると佐藤継信は享年は28(佐藤氏の菩提寺である医王寺の佐藤継信の石塔には享年36とある)。 盛衰記では継信は義経の乳母子とされている
『平家物語』での佐藤継信最期の場面
軍記物『平家物語』では屋島での佐藤継信の最期は次のように描かれています。
『平家物語』巻第十一「嗣信最後」
「屋島の戦いにおいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。義経は鎧の袖を顔に押し当てさめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と描かれています。
『平家物語』では、佐藤継信は平教経が総大将義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされているが、『吾妻鏡』では平教経は一の谷合戦ですでに戦死したことになっている。

屋島古戦場に佐藤継信の墓が二つある謎
冒頭でも話しましたが、屋島古戦場には佐藤継信の墓と呼ばれるものが二か所あります。一つは琴平電鉄志度線の八栗駅から徒歩3分のところに佐藤継信の墓と義経の愛馬大夫黒の墓がります。佐藤継信の墓は、昭和初期に佐藤継信の子孫の方が建てられたお墓です。継信の死を嘆いた義経は菩提を弔うよう志度寺の覚阿上人という僧に頼み義経自らの愛馬である太夫黒(たゆうぐろ)を贈ったといわれ、その太夫黒の墓が継信の墓の横に作られている。継信が亡くなったときには洲崎寺の寺の扉に乗せて運ばれたという伝承があり、洲崎寺には継信ゆかりの武具などが残っている。
もう一か所の佐藤継信の墓は、遍路道の傍らにあり、高松藩初代藩主松平頼重が建立したものである。もとは現王墓池(平田池)のある場所にあったが、1645年(正保2年)の平田池の築造で現在地に移されました・1931年(昭和6年)5月に佐藤継信の子孫によって大改修され墓地公園になっている(高松市登録史跡)。同地に宮島詠士の筆による石碑「佐藤氏念祖碑」が建つ。近くには菊王丸の墓があります。この結果、現在、屋島古戦場には墓が二つあります。




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