人道目的で来航したアメリカ商船モリソン号をなぜ徳川幕府は砲撃したか?

江戸時代

    はじめに

 皆様、日本とアメリカのファーストコンタクトはいつからか知ってますか?よく幕末物を題材にした大河ドラマだと日本とアメリカのファーストコンタクトは浦賀にペリー来航した時だと思われてますが、多くの人もそう思われてるかもしれません。ですが、正確に違います。アメリカのファーストコンタクは1837年(天保8年)に来航したモリソン号が最初です。このモリソン号がアメリカとのファーストコンタクトなのに、多くの人に浸透してないです。そればかりか「モリソン号事件」として扱われいます。学校の歴史教科書でも「モリソン号事件」として取り上げられていました。ペリー来航はアメリカ軍艦ですが、モリソン号は商船です。

    アメリカ合衆国の太平洋進出

 モリソン号より先の話ですが、アメリカ政府は1848年に米墨戦争の結果としてカリフォルニアを奪取します。カリフォルニアから金鉱も発見され、サンフランシスコなどでゴールドラッシュが盛んになります。アメリカ西海岸側から太平洋を渡って中国へ向かう航路が計画されました。遠洋航海のため石炭の補給地が必要となり、太平洋の島国の日本が適地とみなされました。つまり、アメリカからすれば日本の開国は対中国貿易のために必要だったということになります。またアメリカ捕鯨業の隆盛で、アメリカ政府は日本に目を付けたのは、中国貿易以外にアメリカは捕鯨業と関係しています。アメリカ合衆国は独立戦争以前は大西洋岸のニューイングランドを根拠地に行っていましたが、アメリカ合衆国独立した後、太平洋に捕鯨のため漁場に求めました。アメリカ北西海岸沖、オホーツク海、北極海に漁場を発見し進出していきました。

    日本人の水主(すいしゅ)音吉・岩吉・久吉の漂流

 1832年(天保3年)10月、宝順丸(米・陶器積んでいる舟)に尾張の知多半島の小野浦の水主の音吉・岩吉・久吉の三人も乗り込んでました。江戸に向けて鳥羽港を出港しました。宝順丸の船頭樋口重右衛門以下乗組員13名でした。宝順丸は江戸に向けて航海している途中の遠州灘で暴風に遭って舟が難破しました。乗組員は太平洋を漂流すること14か月、ようやく陸地に漂着しました。生き残ったは音吉・岩吉・久吉の3人で、残った乗組員は壊血病でなくなりました。

   (宝順丸の乗組員の墓)
  (宝順丸が漂流したアメリカのワシントン州のアラヴァ岬とオゼット島)

 アメリカ合衆国のオリンピック半島・フラッタリー岬付近にたどり着いた彼らは、音吉・岩吉・久吉の3人は現地のアメリカ・インディアン(マカ—族)に救助される。音吉の「栄力丸漂流記」の記述から、エスキモーだったという説もある。しかし、マカ―族は彼らを善意で助けたわけではなく、のちに奴隷としてこき使った。さらにはイギリス船に売り飛ばし、代わりに金品を得た。イギリス船はハドソン湾会社の持船ラーマ号で、オレゴン・カントリーのアストリア砦(現オレゴン州アストリア)に送られた3人を救助した情報はただちにロンドンへ届けられる。そこで、3人を日本に帰すためマカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗せることにした。船は途中、ロンドンに着いた音吉・岩吉・久吉らはテムズ川で10日の間、船上にとどまっていたが、許されて1日ロンドン見学を行っている。彼らが確実な記録に残っている中では、イギリスの地に最初に上陸した日本人であった。

1835年(天保6年)12月、ゼネラル・パーマー号はマカオに着き、イギリス貿易監督庁を通じ、音吉・岩吉・久吉ら3人はドイツ人宣教師でイギリス貿易監督庁通訳官のチャールズ・ギュツラフに預けられる。そして音吉ら3人はチャールズ・ギュツラフと協力し、現存する世界初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させました。

 音吉・岩吉・久吉3人は日本への帰国を切望していたという。このため、3人は当初、キリスト教を禁教していた日本の状況を考えて「帰国後どんなおとがめがあるか分かりません」と、聖書の翻訳を拒否していたという。

その後、1837年(天保8)3月、九州出身の漂流民である庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松ら4人が、マニラからスペイン船でマカオに届けられいた音吉・岩吉・久吉ら三人は異国で同胞たちと対面した。同年7月4日、アメリカ商社オリファ商会の商船モリソン号に乗って、合流した4人を含む7人がマカオを離れ、琉球に出発し、江戸に向かった。

       モリソン号来航と幕府の異国船打払い令

  アメリカの商船モリソン号の船長デアード・イガソルは七人の日本人漂流民を無事に日本に送り届けることを目的した。あわよくば、日本と通商を結ぶことを目的した。モリソン号にはカール・ギュツラフ・サミュエル・ウィリアムズら宣教師らが乗船してた。彼らは日本で布教目的であった。

 1837年7月30日にモリソン号は相模国の三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、モリソン号に予期せぬ砲撃にさらされた。砲撃したのは、当時の浦賀奉行太田資統でした。資統は幕府の異国船打払令に基づいてものだった。その後、モリソン号は伊勢の鳥羽港に向かったが、鳥羽は暴風雨で断念し、そのまま南方へ、モリソン号は薩摩の山川に上陸した。薩摩藩は山川港にモリソン号の入港を知り、城代家老の島津久風を山川港に遣わした。久風はモリソン号の船長と交渉します。薩摩藩はモリソン号に薪・水・食糧を当てました。庄蔵・寿三郎ら漂流民の送還については、漂流民はオランダ人に委嘱して送還するべきだ拒否しました。モリソン号は空しく船を出港させました。久風は異国船打払令に基づいて空砲を撃って威嚇射撃をしました。、8月13日にマカオに引き返すことを決定をし、8月19日にマカオに戻った。(モリソン号事件)

 当時幕府は、日本近を始めるとする異国船(外国船)が頻繁に来航しており、これらの中には無許可で上陸や暴力事件を起こっており、徳川幕府は特に1808年8月に長崎で発生したフェートン号事件を機に異国船打払令を出しました。異国船が日本近海に接近し、異国船を見つけ次第を砲撃して追い返す強硬姿勢を取っていました。幕府ではモリソン号をイギリスの軍艦と誤認して砲撃命令してしまった。

   音吉のその後

 結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻った。音吉は、1838年(天保9年)にローマン号でアメリカ合衆国へ行った可能性がある。その後、音吉は上海へ渡り、アヘン戦争に英国兵として従軍する(従軍していないという説もある)。その後、デント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)に勤めた。同じ頃、同じデント商会で働くイギリス人女性(名は不明)と初婚をしている。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれたが4歳9ヶ月で幼逝、妻もその後、他界している。この娘メアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポール残っている。

 1849年(嘉永2年)4月8日、イギリス東インド会社艦隊の帆船マリナー号が浦賀に来航した。これに音吉が通訳として同行するが、中国人「林阿多」と名乗った。1853年には、アメリカのペリー艦隊に同行予定だった日本人漂流民(仙太郎ら栄力丸船員)の脱走を手引きし、のちに清国船で日本へと帰国させている。また、1854年9月にイギリス極東艦隊の司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始した時、音吉は再度来日し通訳を務めた。また、この時に福沢諭吉などと出会っている。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがあったが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っている。

その後、スコットランド系の両親を持つシンガポール出身の女性で、デント商会の同僚であったルイーザと再婚する。この2度目の妻との間には、1男2女をなす。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつあった。

     (愛知県美浜町の音吉・久吉・岩吉の記念碑)

モリソン号事件後の日本の対応

モリソン号事件から翌1838年(天保9年)6月、長崎のオランダ商館が幕府にモリソン号が漂流民と通商目的だと報告。人道支援だと知った。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7-8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

  • 勘定奉行・勘定方「通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる」
  • 大目付・目付「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき」
  • 林大学頭(林述斎・鳥居耀蔵の父)「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり」

水野忠邦は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。

  • 評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」

水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野忠邦長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。

 幕府内でモリソン号に関する評議がおこなわれていたのと同時期、1838年(天保9年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣芳賀市三郎(靖兵隊の隊長芳賀宜道の父)が、評定所において現在進行中のモリソン号の再来に関する答申案をひそかに流した。幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山高野長英・松本斗機蔵をはじめとするその場の一同は幕府の決定は打ち払いにあり、(またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。)

 報せを聞いてから6日後に、高野長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮し、前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせた。なお、松本斗機蔵高野長英と同様の趣旨の「上書」を幕府に提出している。

一方、渡辺崋山『槙機論』を書いた。自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、友人の儒学者海野予介が老中太田資始の侍講であったことから海野に仲介を頼んでいた。しかし当の『慎機論』は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた渡部崋山は、田原藩の年寄という立場上、高野長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。

 高野長英『戊戌夢物語』も渡辺崋山『槙機論』モリソン号のことをイギリス人モリソンと完全に誤解していた。松本の「上書」では事実通りの船名となっており、長英と崋山はあえてモリソンを人名としたものと思われる。モリソンを恐るべき海軍提督であるかのように偽って幕府に恐れさせ、交易要求を受け入れさせようとしたものとみられる。

 

   まとめ

 次のアメリカとのコンタクトは1846年ジェームズ・ビトルの浦賀来航です。幕府側もモリソン号をアメリカ船ではなく、イギリス船と誤解してるところ。日本では、まだまだ新興のアメリカ合衆国の存在を知られていなかったのである。 

また昭和になって作家の三浦綾子さんは、このモリソン号事件を題材に『海嶺』(1981年)を書き上げました。また1983年12月3日には松竹映画から 『海嶺』映画館で上映されました。

(三浦綾子さんの小説『海嶺』)
  (1983年の映画『海嶺』)

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