はじめに
京都市左京区八瀬秋元町の比叡山に瑠璃堂という建物がります。この瑠璃堂は1571年に織田信長の延暦寺焼き討ちで、唯一まぬがれた建物と伝わっています。また白河法皇の御代に「天下三不如意」があります。「天下三不如意」とは加茂の水・双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が『平家物語』(一)あるように。白河法皇が一番恐れていたのが叡山の山法師(僧兵)を恐れていました。その比叡山に対し信長は延暦寺焼き討ち決行したのでしょうか?今から紐解いてみましょう。
信長登場以前の比叡山延暦寺の歴史
比叡山延暦寺は寺社勢力の中で最大で、僧兵を擁している武力勢力で、平安の昔から叡山の山法師が日吉山王社の神輿を担いで都及び朝廷に強訴しました。この時代は神社と寺は一心同体(神仏習合)でした。延暦寺は時には武家政権とも衝突しました。(平家政権・鎌倉幕府を脅かす存在でした。)
特に京都に政権を構える室町幕府とは度々抗争しています。室町幕府は五山制度を作って臨済宗の力で延暦寺に対抗しました。中でも室町幕府六代将軍は足利義教は軍勢を率いて比叡山延暦寺を攻撃しました。1499年(明応8年)細川政元は比叡山延暦寺が前将軍足利義尹(義稙)勢力に味方したので、延暦寺の脅威を恐れて、細川政元は部下に命じて比叡山延暦寺を焼き討ちしました。
比叡山延暦寺と他の寺社勢力との抗争
比叡山延暦寺延暦寺は市場の利権争でで他の宗派とも抗争しています。特に園城寺(三井寺)と両者も僧兵を擁してるので武力衝突になりました。
戦国時代には天分法華の乱と呼ばれる宗教戦争がありました。日蓮宗と天台宗総本山延暦寺の抗争です。日蓮宗と延暦寺は同じ法華宗で教義も一緒です。(天台宗は正確には天台法華宗と呼ばれます。)きっかけは日蓮宗が法華経の教義を理解させずに、民衆に「南無妙法蓮華教」と題目をとなえるだけで功徳が叶うと教えていること、天台宗に対し攻撃的であったことに怒り、延暦寺の僧兵が京都にある21か所日蓮宗の寺を焼き討ちしました。同勢力が京都市内で争ったために応仁の乱以上に京都市内は被害をこうむりました。
比叡山延暦寺の収入と市場の独占
延暦寺の武力は僧兵集団中心に3000近くあります。当時の大名は一万石につき200の兵力を動員できるなので、延暦寺は数十万石の大名と同等経済力はありました。
また越前と加賀に巨大な比叡山延暦寺の寺領を持っているので、そこで収穫された米を京に運ぶための、琵琶湖の水運および大津・坂本の馬借(運送業)もまた延暦寺が独占していた。 室町期には約300軒あった京の金融業者のうち8割は比叡山延暦寺が資本で、同様に酒屋、米屋、油屋などの大半も比叡山延暦寺ものでしでした。 ですので、延暦寺は金融関係に強かったのは、武力をもって債権の取り立てを行うとともに、土蔵・土倉(金庫)を守ることができたからである。全国的ネットワークを有していたことも大きいだろう。預金制度もあったらしく、預ける方からすれば、比叡山延暦寺は治外法権で、僧兵に守られているそう意味では延暦寺は安心でした。
●延暦寺は大阪までのや淀川に300か所に関所を設けて、また比叡山延暦寺のふもと坂本に関所を設け。通行人から関銭を徴収しました。
●延暦寺は琵琶湖水運も独占し、通航税を徴収。
●延暦寺は市場を独占していました。例えば、市場で新しく商売するために商人が来たら、まっ先に延暦寺の僧兵が来て、商人は商売を始めるには延暦寺に商売代(シャバ代)を請求されました。市場は延暦寺と結びついている特権商人(座)を優先的に商売させました。
比叡山延暦寺と織田信長の対立
比叡山延暦寺と織田信長が対立のきっかけとして、信長が比叡山領を横領したことになっています。1569年(永禄12年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。
1570年(元亀元年)6月28日の浅井長政・朝倉義景連合軍と姉川で戦い勝利した。姉川の戦い後、信長は同年8月26日の野田・福島では、石山本願寺、浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ撤退。
志賀の陣での比叡山延暦寺活躍。
本願寺顕如は信長の背後をつくため延暦寺に浅井・朝倉連合軍に加勢を要請した。延暦寺は浅井・朝倉連合軍に加わり、近江坂本で宇佐山城守備する織田軍の織田信治(信長の弟)・森可成・青地茂綱と合戦して、信冶らを討取った。しかし、織田方の防衛線を破ることには成功した浅井・朝倉勢は粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍。元亀元年9月21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まで迫った。
22日になって、信長のもとに「浅井・朝倉勢が織田方の防衛線を突破し京都に迫っている」という知らせが届いた。信長は京が浅井・朝倉勢の手に落ちた時の政治的影響を考え、摂津戦線から撤退することを決断した。
一方、信長が転進してきたことを知った浅井長政・朝倉義景連合軍は協力体制のある比叡山延暦寺にへ後退した。浅井・朝倉軍は延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。
9月24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は延暦寺に対して、「織田方に加勢するならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。
延暦寺が浅井・朝倉勢の味方をしたことにより、織田軍は早期決戦を行うことができなくなり、明智光秀・佐久間信盛らを主将として美濃・近江の国衆を中心に比叡山を包囲することになった。この間も摂津では三好三人衆が活動しており、長引く不利を悟った信長は包囲が1ヶ月に及んだ10月20日になって、信長は菅屋長頼を使者を立てて朝倉義景に決戦を促したが、黙殺されたという。同日、浅井・朝倉勢は布陣していた青山から京都に下り、一乗寺など辺り一帯を放火して廻り、幕府奉公衆が防戦している。
信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵することになった。信長が上洛戦で破った六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断したほか、伊勢長島では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を起こしている。また、三好三人衆は野田城・福島城から打って出て京都を窺っているが、これは和田惟政が食い止めている。この時、木下秀吉・丹羽長秀は琵琶湖東岸の横山城で浅井軍が東岸を南下しないように守備していたが、一揆勢が美濃と京都の交通を遮断したことに対してこれを回復すべく11月上旬に出陣している。木下、丹羽の両勢は11月16日までに六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたようである。また10月初旬に近江へ到着し、瀬田・草津間に展開した徳川家康の援軍も、六角勢と繰り返し戦闘を行っていた。しかし、情勢は悪化する一方であり、11月21日には長島門徒の攻撃を受けた尾張小江木城で信長の弟織田信興が討死した。
その一方で、織田軍との戦いに敗れた六角氏は11月には信長と和睦して戦線を離脱した(朝倉義景への弁明を記した11月26日付の六角義賢の書状が伝わっている)
11月25日になって堅田の猪狩昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通したので、信長は坂井政尚・安藤右衛門佐・桑原平兵衛ら1千の兵を堅田の砦に侵入させ、防備を固めることで西近江の物流の差し押さえを狙った。しかし、朝倉軍も素早く坂井の堅田入りを察知し、翌11月26日には朝倉景鏡・前波景当や一向宗門徒らが比叡山より下って堅田に攻め寄せた。坂井率いる織田軍は堅田を囲まれ孤立したが、前波景当を返り討ちにするなどしたものの、結局は織田軍は壊滅し坂井政尚らは戦死。猪飼らは堅田を捨てて船で琵琶湖を渡って逃走し、この試みは失敗に終わっている。
11月末になり、包囲は2ヶ月に及んだが依然として比叡山に籠る浅井・朝倉軍は降伏する様子を見せなかった。しかし、信長は反織田の勢力が連なるのを問題視し、11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。そのため、12月13日になって朝廷と義昭の仲介を受け入れ、信長との講和に同意した。12月14日、織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島を通って帰国した。(志賀の陣)

比叡山延暦寺攻めまでの流れ
1571年( 元亀2年1月2日)信長は横山城主木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。 「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」(『尋憲記』)
信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。
同年2月、孤立していた浅井方の佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。5月には浅井軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井連合軍は敗退した。同月、信長は伊勢で長嶋一向一揆に参加した村々を焼き払うと、8月18日には浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた志村城・小川城を攻城した。志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。
比叡山延暦寺焼き討ち
1571年(元亀2年)信長は延暦寺のふもとの坂本・三井寺に出陣した。三井寺山内の山岡景猶の屋敷を本陣にした。この動きを察知した延暦寺は、信長のもとに黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
信長が延暦寺を攻める理由は、前年の比叡山延暦寺が志賀の陣で浅井長政・朝倉義景連合軍に味方し、彼らを延暦寺内で匿ったこと信長が横領した比叡山延暦寺の荘園を延暦寺に返還するための講和を延暦寺側が無視したことが引き金なっていた。
1571年(元亀2年)9月12日、信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。
『信長公記』にはこの時の様子が「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』)

坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もったようだが、そこを織田軍は容赦なく攻め斬り殺しまわった。同所も焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。


比叡山延暦寺焼き討ちのその後と評価

信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅した。寺領、社領は没収され明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、明智光秀は織田家中で早く持ち城の坂本城を築城することになる。
一方、延暦寺側では逃げ切ることができた。覚恕・正覚院豪盛らが、甲斐の武田信玄に庇護を求めた。信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたいましたが、1573年(元亀4年)に病死したため、実現をみるに至らなかった。1579年(天正7年)6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。
その後本能寺の変で信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達が続々と帰山し始めた。彼らは羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。ただし、詮舜とその兄賢珍を秀吉は意気に感じたのか、それより陣営の出入りを許された2人は、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。
そして小牧・長久手で出軍している秀吉に犬山城で度重なる山門復興の要請を行い、比叡山焼き討ちから約13年後の1584年(天正12年)5月1日、僧兵を置かないことを条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅1万貫が寄進された。
織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちの意義
考古学者である兼康保明によると、明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この焼き打ち以前に細川政元の叡山攻め以来に廃絶していたものが大半であったと指摘してい。また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東搭・西搭・横川と限定されているが、焼き打ち時に比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多門院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。従って『言継卿記』に記載されている、寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。

信長の比叡山延暦寺焼き討ちの理由は本当は延暦寺が戦国大名の並みの武力と市場独占をメス入れることが目的で、前年の志賀の陣はきっかけであった。この焼討ちで延暦寺の武力は壊滅したため、自動的に延暦寺の武装集団の武装解除につながった。
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