はじめに
横溝正史の代表作『八つ墓村』と作品があります。この冒頭に田治見要蔵が白装束を着て頭に懐中電灯を装着し、手には日本刀と猟銃を持って村を駆け回り、家々回って32人の村人を殺しまわるシーンがあります。これはフィクションですが、読んでいても、映像でも見ても異様で、怖いシーンでした。しかし、この『八つ墓村』にはモデルとなった事件がありました。それは戦前の昭和13年に岡山県津山市で起こった「津山事件」または「津山三十人殺し」と呼ばれる事件です。津山事件の悲劇は、なぜ起こったんでしょうか?
都井睦雄の生い立ち
「津山事件」の犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現岡山県津山市加茂町倉見)に生まれた。1918年7月18日に祖父、同年12月1日に父、1919年4月29日に母を亡くしました。全員が肺結核であった。
当時は結核感染者が多く出る家を労咳筋(ろうがいすじ)として忌み嫌う傾向があり差別の対象とされたため、都井に家督を継がせるべきかという議論が都井一族内で巻き起こった。結果として都井に継がせるべきではないとの判断が一族の大半を占め、最終的に都井宗家を継ぐのは、祖父の代で既に分家していた祖父の弟の一人(都井の大叔父)となった。
以降は祖父の後妻である、血縁関係のない祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。睦雄が6歳の時に都井一家は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越しました。都井は両親より約13,000平方メートルの田畑と、約8,000平方メートルの山林を相続したが、いずれも倉見に存在する資産であった。また都井一家が暮らしていた倉見の屋敷も遺産に含まれたが、それら全てを合わせても都井宗家の資産全体のうち僅かなものだった。
睦雄は尋常高等小学校を卒業直後に胸膜炎を患って医師から農作業を禁止されました。無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚したころから徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。
昭和12年(1937年)5月22日、都井睦雄は徴兵検査を受けたが、結核を理由に丙種合格(不合格)とされた。そのころから睦雄は、それまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由として関係を拒絶されるようになる。とくに実家近くの西山良子さんにも関係を拒否された。そして、心ない風評に都井は不満を募らせていった。
同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入した。翌昭和13年(1938年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発のブローニング製散弾銃であるブローニング・オート5を購入した。毎日山に籠って射撃訓練に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。都井はこのころから犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受けた。猟銃一式のほか、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃所持許可も取り消された。
津山事件の犯行前夜
都井睦雄は、警察により凶器類を没収されて、すべて失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬の購入、刀剣愛好家からの日本刀譲り受けなどによって、ふたたび凶器類を揃えました。それから時がたって、以前睦雄の許嫁だった寺井ゆり子さんに結婚も拒否され(ゆり子は隣村の上村岩男と再婚する。)睦雄とは距離を置きたかったらしい。そのゆり子が西山良子さんの弟の結婚式に参加するため貝尾村に里帰りしていました。このことを知った睦雄はゆり子、西山良子を含む大量殺人を計画しました。
津山事件犯行当日
犯人の都井睦雄は事件の数日前から、実姉をはじめ数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど、犯行に向け周到な準備を進めていたことがのちの捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治してください。この世で強く生きてください」という内容である。
1938年(昭和13年)5月20日午後5時ごろ、睦雄は電柱によじ登り送電線を切断し、貝尾集落のみを全面的に停電させました。。しかし村人たちはいつも強風などですぐ停電なることがあった。(当時は送電技術が不備だった)停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分ごろ、都井睦雄は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締めて、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。首からはナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には9連発に改造したプローニング・オート猟銃を持った。
睦雄は、まず夜も更けた頃、鉈を手に自宅で就寝中の祖母を首を切り落として即死させ、(祖母が生き残った場合は孫が殺人犯だったら、村人から非難の的になること不憫に思ったから)近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。当時の貝尾集落では、夜間に施錠している家はなかった。被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。被害者の年齢表記は数え年となる。1950年に満年齢使用が義務化されるまでは数え年表記が一般的であり、都井は犯行当時満年齢21歳だったが、数えでは22歳となる。11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒で一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。
「都井による激しい銃声と怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどした者だけが生存者となった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。また、ある家では、主人からの「決して動かんから助けてくれ」という必死の哀願に「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と応え、その場を立ち去っている。」


約1時間半に及ぶ犯行後、睦雄は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていて顔見知りであったため、その子に頼み、鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。
その後、3.5キロメートル離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて、追加の遺書を書いたあと、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。
遺書の内容は以下の通りである。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする。)
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしてきたからだとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たとき逃げ出して助かり、逆にこの家に逃げ込んだ隣家の家人が射殺されることとなった。

まとめ
津山事件は、日本が明治維新後に西洋式の近代法制を整備して以降、戦争行為を除く犯罪としては、2019年の京都アニメーション放火殺人事件が発生するまで、最多の犠牲者でした。犯人の都井睦雄の動機は近隣住民への怨恨だったけど、背景には国に全体が太平洋戦争に向かって軍備拡張している時期で周囲も緊張してる中での兵役検査の不合格が都井睦雄の動機の一つに繋がりました。そう意味では都井睦雄も戦争の被害者でした。津山事件は多くの作家が題材なっています。冒頭で話した横溝正史の『八つ墓村』・西村望の『丑三つの村』などです。
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