新田義貞の鎌倉攻めの折、稲村ケ崎から鎌倉へ徒渉した伝説は果たして本当か?

鎌倉・南北朝・室町・戦国・織豊時代
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               はじめに

   稲村ヶ崎は現在は藤沢から鎌倉を結ぶ江ノ電に稲村ケ崎駅があり。地理的に鎌倉市の南西部にある岬で、七里ヶ浜と由比ガ浜の間にあります。

   奈良時代の万葉集に稲村ケ崎は

  ー鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ— (万葉集 巻14)

           として見越しの崎として紹介されていました。

 また稲村ケ崎は映画の舞台になっています。有名なのが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんが監督した『稲村ジェーン』(1990年)です。そんな名勝の稲村ケ崎が古戦場になった時期がります。それは鎌倉時代末期の新田義貞の鎌倉攻めです。次から詳しく話します。

          新田義貞の鎌倉攻めと稲村ケ崎

  1333年(元弘3年)同族の足利高氏が挙兵して、京都の鎌倉幕府の出張機関六波羅探題を滅ぼすと、それに呼応して、上野国の生品神社で挙兵した新田義貞が鎌倉に向けて進軍した。小手指原、久米川、分倍河原、関戸などで幕府軍を破り鎌倉に進軍。新田義貞は軍勢を三手に分けて、巨福坂に向かうて軍勢、化粧坂に向かう軍勢、極楽寺坂に軍勢分けた。義貞は、弟脇屋義介ら主力を率いて化粧坂へ、大舘宗氏の軍勢は極楽寺坂に進軍した。 極楽寺坂では幕府方の大仏貞直の防衛が固く、大舘宗氏ら11人は中々防衛を突破できず、貞直の近臣本間山城守左衛門の反撃で打ち取られた。また『太平記』では大舘宗氏は稲村ケ崎を突破したと記事を書いてあった。この大舘宗氏ら11人の遺体は葬られて、現在、稲村ケ崎駅近く十一人塚となっています。

           新田義貞の稲村ケ崎を徒渉伝説

                (十一人塚)

  1333年5月21日、大舘宗氏が戦死の報を接した新田義貞は、化粧坂を弟に任せて、自分は10万の軍勢を率いて援軍のため極楽寺坂へ、到着後、極楽寺を避けて西方の稲村ケ崎へ向かった。稲村ケ崎は海に突き出した断崖で大軍を率いては歩いては海を渡れず困難を要した。そこで義貞は海に面した岬へ登り、武士達を集めて黄金の太刀を海に投じて、義貞が龍神に祈ると、海の海水が見る見る引いて干潟になった。それを見た武士達は喜び、義貞は軍勢を率いて干潟になった稲村ケ崎を歩いて渡っていた。以上が『太平記』に記載された稲村ケ崎徒渉伝説の話です。

    

                 (稲村ケ崎古戦場)

                 

               (太刀を投じる新田義貞像)(生品神社)
           (現在の稲村ケ崎)

             新田義貞と諸葛亮孔明

  新田義貞が海に太刀を投げ入れだけで海が引いて干潟になって陸地が現る『太平記』の話は、実際に本当のことでしょうか?義貞はあらかじめ海が干潮になること知っていて、武士達の前で太刀を投げ入れるパフォーマンスを打ったと思います。

 これと同じことが、状況は違いますが、中国の三国時代の魏との赤壁の戦いの時です。赤壁の前夜に蜀の軍師諸葛亮孔明が、呉の周瑜の前で祭壇を作って、その祭壇の前で孔明が祈ると見る見る風向き変わって見事に東南の風を吹かせたました。これも孔明が天文・気象の知識があり、風向きが変わる時間を知っていて、わざと祭壇を作って周瑜らの前でパフォーマンスして信じさせた。これは『三国志演義』に書かれていることです。新田義貞も孔明も干潮や風向きが変わるタイミングを掴んでいたんでしょ。時間を見計らってパフォーマンスしました。このあと義貞は鎌倉に侵攻しました。これで鎌倉の鉄壁の防壁が崩れ、三方向から鎌倉に侵攻して鎌倉幕府の倒幕に成功しています。

参考文献

●『太平記』(二)(兵藤裕己校)(岩波文庫)

●『神奈川県歴史散歩』(下)(山川出版)

●『鎌倉散歩24』(山川出版)

●『万葉集』

●『三国志演義』(井波律子訳)(ちくま文庫)

    

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